バイオントダム
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バイオントダム


所在地 イタリア
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県エルト・エ・カッソ
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯46度16分02秒 東経12度19分44秒 / 北緯46.26722度 東経12.32889度 / 46.26722; 12.32889座標: 北緯46度16分02秒 東経12度19分44秒 / 北緯46.26722度 東経12.32889度 / 46.26722; 12.32889
河川バイオント川
ダム湖バイオント湖
ダム諸元
ダム型式アーチ式コンクリートダム
堤高262 m
堤頂長190 m
堤体積360,000
総貯水容量168,000,000 m³
着手年/竣工年1957年/1960年
出典 ⇒ダム便覧
備考1963年の事故後放棄
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バイオントダム(ヴァイオントダム、イタリア語: Diga del Vajont)は、イタリア北東部を流れるピアーヴェ川支川のバイオント川に建設されたダム1960年に竣工したが、1963年10月9日に犠牲者2000名以上を出す地すべり・溢水災害を引き起こし、放棄された。
概要ロンガローネから見たバイオントダムの堤体

バイオント川 (it:Vajont (torrente)) は、イタリア北東部のヴェネト州を流れるピアーヴェ川の支川である。バイオントダムは、バイオント川が東のバイオント谷からピアーヴェ川に合流する手前に通る、狭隘で深い渓谷に建設された。1960年の竣工当時、262mの堤高は世界一であった。

ダムは、エルト・エ・カッソ村(フリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県)の西端にあたる。ダムの真西、峡谷の出口にあたるピアーヴェ川右岸には、ロンガローネ村(ヴェネト州ベッルーノ県)の中心であるロンガローネの集落が広がっている。

貯水開始後、地すべりが頻発するようになった。危険性の指摘や、大災害の予兆はあったものの、それらは軽視された。1963年10月9日のバイオントダム災害 (it:Disastro del Vajont) は、大規模な地すべりによって貯水湖から押し出された水が津波となり、ダム湖周辺およびダム下流の集落に壊滅的な被害をもたらしたものである。堤体自体はほぼ損傷しなかったものの、ダムは放棄された。この災害以後、ダムの建設において周辺の地質を調べることが重要視されるようになった。

2008年2月12日ユネスコ国際地質科学連合などが中心になって行った「国際惑星地球年」(IYPE)プログラムの一環として、ユネスコは地球科学の理解が重要であることを示す「5つの教訓と5つの朗報」(Five Cautionary Tales and Five Good News Stories)を紹介した。「教訓」の筆頭に、「技術者と地質学者の失敗」によって引き起こされた事例としてバイオントダム災害が挙げられており、山腹の地質に対する適切な理解があれば防ぎ得たとした[1][2]
沿革ダム建設前の地形図(1934年)

バイオント谷の出口にダムを建設するという提案は、1920年代にはじめて行われた[1]。この土地の地盤の脆弱性は指摘されていたが、第二次世界大戦中の1943年10月15日に公共事業委員会から建築の許可が出されている[3][4]

1957年、ヴェネツィアのアドリア電力会社(SADE) (it:Societa Adriatica di Elettricita) はダム工事を開始した[4]1960年11月30日に竣工した。設計者は、革新的なダム設計を多く手掛けたカルロ・セメンツァ (it:Carlo Semenza) (1893年 - 1961年)であった。この間、1962年に電力国有化によって電力会社が統合され、国営のイタリア電力公社(ENEL)に移管された。

貯水開始後、地震が頻発するようになり、水深が130mとなった時点で最初の地すべりが発生した。この地震は世界各地のダムで貯水に伴って発生しているダム地震ではないかと考えられている[5][6]。この地すべりによって当時の貯水池が二分される形になったため、1960年から61年にかけて両方を結ぶバイパス水路を建設している。補強工事などを行ったのち、1961年に本格的な貯水を開始した[7]

着工前(1956年)

完成直前

水を湛えるバイオントダム

斜面の亀裂

バイオントダム災害

バイオントダム災害
災害後のバイオントダム
正式名称Disastro del Vajont
場所 イタリア
フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ポルデノーネ県エルト・エ・カッソ
ヴェネト州ベッルーノ県ロンガローネカステッラヴァッツォ
日付1963年10月9日
午後10時39分 (CET)
概要ダム左岸の山が2km以上に渡って地すべりを起こし、膨大な土砂がダムに流入。貯水が堤体を越流し、下流の村々を襲った。
原因ダム周辺の地盤の脆弱性の軽視
死亡者2,125人(異説有)
損害5,000億イタリア・リラ
刑事訴訟有罪:8名
影響・バイオントダムの放棄
・ダム建設時の周辺地質評価の重要性の上昇
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予兆

1963年、この年は記録的な豪雨に見舞われた。9月中旬には地すべり速度が大きくなり、貯水量を下げるために3本のトンネルから放水が行われた。
1963年10月9日午後10時39分災害後のロンガローネ

1963年10月9日午後10時39分、ダム左岸(南岸)のトック山が2km以上に渡って地すべりを起こし、膨大な土砂が時速100km程度とされる[3]高速でダム湖になだれ落ちた。滑落した土砂は2億4000万m3と推定される[7](ほかに、2億6000万m3[4]や2億7000万m3[3]の数字を出すものもある)。

当時のダム湖には1億1500万m3の水が貯水されていたが、土砂に押し出されて津波となった湖水は対岸と下流に押し寄せた。右岸(北岸)に向かった津波は谷の斜面を高さ250mまで駆け上った。ダムから240m以上の高さにあったカッソの集落では、低い場所にあった家屋が波に飲まれた。また、5000万m3に及ぶ水がダムの天端(頂部)を100mの高さで飛び越えてピアーヴェ川沿いの村々を襲った[7]。とくに、峡谷の出口にあったロンガローネの集落は、上空から殺到する「水の壁」の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。この結果、ダムの工事関係者と住民2125人が死亡するという大惨事となった[7](犠牲者として挙げられる数は、1900人余り[8]、2000人以上[9]、2500人[10]、2600人[11]など幅がある)。


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