バイエルン選帝侯領
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バイエルン選帝侯領の旗

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バイエルン選帝侯領(バイエルンせんていこうりょう、ドイツ語:Kurfurstentum Bayern)は、1648年から1805年まで存在した、神聖ローマ帝国領邦。帝国崩壊後にバイエルン王国へと発展した。現ドイツバイエルン州の一部にあたる。目次

1 歴史

1.1 前史

1.2 ハプスブルク家との抗争

1.3 プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立


2 関連項目

3 参考文献

歴史
前史「バイエルン公国」も参照

1180年オットー1世バイエルン公に封じられて以来、バイエルンヴィッテルスバッハ家が統治していたが、14世紀にバイエルン系とプファルツ(ライン宮中伯)系に分離した。後者は1356年金印勅書選帝侯位を獲得した。ヴィッテルスバッハ家の両系統では、以後も一族内で分割相続が行われて所領がたびたび細分化されていたが、バイエルンでは16世紀ヴィルヘルム4世以後、長子単独相続が行われるようになった。

1618年プロテスタントの盟主であったプファルツ=ジンメルン家プファルツ選帝侯フリードリヒ5世ボヘミアに推戴されたことが契機となって三十年戦争が勃発する。これに対して、バイエルン公マクシミリアン1世神聖ローマ皇帝フェルディナント2世側に就き、カトリック軍の主力として戦った。マクシミリアン1世はその功績を皇帝に認められ、1623年にフリードリヒ5世が有していたプファルツ選帝侯領及び選帝侯位を与えられたが、これは明らかに金印勅書に反するものであり、結果として戦争を激化させた。マクシミリアン1世自身もスウェーデン軍によってミュンヘンを追われた。

1648年ヴェストファーレン条約で、マクシミリアン1世に与えられていたプファルツ領の大部分はフリードリヒ5世の息子カール1世ルートヴィヒに返還されたが、マクシミリアン1世には選帝侯位の保持が認められ、カール1世ルートヴィヒにも新設のものとして選帝侯位が授けられた。以後、マクシミリアン1世の家系は伝来のバイエルン公領を統治するとともに代々選帝侯位を伝え、その所領はバイエルン選帝侯領と称されるようになる。
ハプスブルク家との抗争

選帝侯位を獲得したバイエルン系ヴィッテルスバッハ家は、かつてそうであったように、次第に神聖ローマ帝国内におけるハプスブルク家の対抗馬として頭角を顕していくことになる。第3代選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルは、最初の妃マリア・アントニア皇女スペイン・ハプスブルク朝最後の国王カルロス2世の姪であったことから、その嫡子ヨーゼフ・フェルディナントが王位継承者としてアストゥリアス公に叙され、マクシミリアン2世自身もスペイン領ネーデルラント総督に任命された。しかしヨーゼフ・フェルディナントは夭折し、スペイン王位にはフランス王ルイ14世の孫で、マクシミリアン2世の姉マリア・アンナの息子でもあるフェリペ5世が就いた。マクシミリアン2世は新国王の叔父として引き続きネーデルラント総督の地位を認められた。

フェリペ5世の即位を巡ってスペイン継承戦争が勃発すると、マクシミリアン2世はフランス側に就いたが、1704年ブレンハイムの戦いオーストリアイギリス連合軍に敗北してバイエルンを占領され、ネーデルラントへの亡命を余儀なくされた。ネーデルラントも1706年ラミイの戦いに敗北したことで喪失、フランスへ亡命した。8年後の1714年バーデンの和約で、マクシミリアン2世はバイエルンを回復することが出来た。

1740年に皇帝カール6世が没し、その娘マリア・テレジアと夫のロレーヌ公フランツ・シュテファンが後を継ぐことになったが、周辺諸国はこれに異議を唱えてオーストリア継承戦争が勃発する。ハプスブルク家の対抗馬として担ぎ出されたのが、ヨーゼフ・フェルディナントの異母弟でマリア・アマーリエ皇女を妻に持つカール・アルブレヒト選帝侯であり、本人も皇帝位への野心を隠さなかった。カール・アルブレヒトは1741年チロルボヘミア上オーストリアを占領し、翌1742年には皇帝カール7世として戴冠を行った。しかし、ハンガリーからの援軍を得たマリア・テレジアは反撃に転じ、領土を奪還したのみならず、バイエルンをも占領するに至った。カール7世は1745年に失意のうちに没し、後を継いだ息子マクシミリアン3世ヨーゼフは同年のフュッセン条約でフランツ・シュテファンの皇帝位を認めた。
プファルツ選帝侯領との統合とバイエルン王国の成立

1777年にマクシミリアン3世ヨーゼフが男子を残すことなく没したことで、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家は断絶した。サリカ法に則って、遠縁であるプファルツ=ズルツバッハ家出身のプファルツ選帝侯カール・テオドールがバイエルン選帝侯を継承し、ヴィッテルスバッハ家は統合された。しかし、カール・テオドールはバイエルン統治に乗り気ではなく、これに目を付けた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はバイエルンとオーストリア領ネーデルラントの交換を持ちかけた。


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