バイエルン人民党
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ドイツ国政党バイエルン人民党
Bayerische Volkspartei

成立年月日1918年12月
前身政党中央党バイエルン支部
解散年月日1933年7月5日
後継政党キリスト教社会同盟
バイエルン民族党
本部所在地バイエルン州ミュンヘン
政治的思想・立場保守主義
連邦主義[1]
バイエルン分邦主義[2]
カトリック政党[3]
反民主共和制[4]
反社会主義[4]
機関紙バイエルン速報(Bayerischer Kurier)[5]
公式カラー.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}   ,
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バイエルン人民党(バイエルンじんみんとう、ドイツ語: Bayerische Volkspartei、略称:BVP)は、ヴァイマル共和政期のドイツバイエルン州の地域政党。保守的でバイエルン分邦主義的なカトリック政党だった。バイエルン人民党[6]の他、バイエルン国民党[7]とも訳される。ドイツ中央政界における役割は限られていたが、バイエルン州議会(ドイツ語版)ではヴァイマル共和政期を通じて第一党を維持し続け、1920年以降はバイエルン州首相を輩出する与党だった。とりわけハインリヒ・ヘルト1924年から1933年までの9年にわたってバイエルン州首相を務めた。1930年以降は少数与党政権となり、1933年国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチス)が中央政権を獲得すると強制的同一化政策の中でバイエルン州政府は解体され、バイエルン人民党も自主解散に追い込まれた。
党史
アイスナー政権下 (1918年-1919年)

第一次世界大戦末期のドイツ革命の中でバイエルン王国ヴィッテルスバッハ王室が廃され、独立社会民主党クルト・アイスナー率いるバイエルン共和国(バイエルン州)が樹立された。この革命の進展にバイエルンのブルジョワ勢力はなすすべもなかったが、勢力の立て直しを図るべく組織の改組を急いだ[8]。またヴァイマル共和政初期の中央集権的傾向に対するバイエルン人の危機感も強まっていた[3]バイエルン人民党創設者ゲオルク・ハイム(ドイツ語版)

そうした流れの一つとして1918年11月12日中央党バイエルン支部とカトリック労働組合の人々がレーゲンスブルクに集まり[9]、中央党バイエルン支部指導者だったゲオルク・ハイム(ドイツ語版)の主導でバイエルン人民党を結成した[3]。キリスト教的社会綱領を掲げるとともにバイエルンの独立性を強調し[10]、中央党本部のマティアス・エルツベルガーの中央集権政策に反対した[11]

アイスナーはバイエルン人民党をはじめとするブルジョワ諸政党をほとんど考慮に入れていなかったが、バイエルン人民党はミュンヘンで高まるボルシェヴィズム的風潮を警戒してレーテによる不当な政治干渉を防止すべく、バイエルン州議会(ドイツ語版)の招集を求める運動を展開した[12]ドイツ社会民主党(SPD)も議会招集を求める運動を行ったため、レーテに偏っていたアイスナーもついに議会招集を認めた[13]

1919年1月12日と2月2日に行われたバイエルン州議会選挙(ドイツ語版)でバイエルン人民党は35%の得票を得て66議席を獲得し、第一党となった。アイスナーの独立社民党はわずか2.5%の得票で3議席しか取れなかった。この選挙結果を受けてバイエルン人民党をはじめとするブルジョワ諸政党と社民党は議会召集に加えてアイスナーの退陣を求めた。逆にレーテ派はますます議会招集を嫌がるようになり、レーテ派と議会派の対立は先鋭化していった[14]

しかし社民党の運動により、2月19日のバイエルンレーテ大会はレーテの全権能を2月21日に開会される議会に譲渡することを決議した。アイスナーは2月21日にバイエルン議会に登院し、そこで辞職を表明する予定だったが、その道中に右翼青年将校アントン・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵(バイエルン人民党員)に暗殺された。同日の議会で極左アロイス・リンドナー(ドイツ語版)が内相エアハルト・アウアー(ドイツ語版)を暗殺の黒幕と信じて銃撃したことで議会内が混乱状態に陥り、傍聴席からも銃撃が起こってバイエルン人民党所属議員ハインリヒ・オーゼル(ドイツ語版)が殺害される事態になった[15]
ホフマン政権 (1919年-1920年)1919年のバイエルン人民党のポスター

1919年2月21日以降、麻痺した議会に代わってバイエルンレーテ中央評議会が権力を掌握したが、社民党と独立社民党の交渉でヨハネス・ホフマン(社民党)を首相とする社民党・独立社民党連立政権が作られることになった。バイエルン人民党は選挙に勝利して第一党になっていたにもかかわらず、全くの少数派である独立社民党が社民党と連立して政権を作るのを黙認した。今は自分たち自らが組閣することより議会政治への移行を円滑に進めねばならない時だと考えたためである[16]

3月17日に議会が招集されたが、バイエルン人民党はじめブルジョワ諸政党が妥協する形で全会一致でホフマンが首相に選出された。しかし議会は議会派とレーテ派の危うい均衡の上に開催されただけだったのでホフマン政権選出後すぐに議会は閉会され、レーテとホフマン政権の合意によりしばらくは議会抜きで政治を行うことになった[17]。4月7日にレーテ派がミュンヘンで革命を起こしてレーテ共和国が樹立され、ホフマン政権がバンベルクへ逃れる事態となるも中央政府からの援軍も得て、5月初旬にレーテ共和国を壊滅させた[18]

ミュンヘンを奪還したホフマン政権は内閣改造を行い、バイエルン人民党所属のカール・フォン・フライベルク(ドイツ語版)男爵が財相としてホフマン内閣に入閣した[19]
バイエルン人民党政権 (1920年-1933年)

1920年3月にカップ一揆の余波でバイエルンでも右派の無血クーデタが起きてホフマン政権は打倒された。その後バイエルン人民党の政治家グスタフ・フォン・カールがバイエルン首相に就任。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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