(国旗)(国章)
国の標語: Proletarier aller Lander, vereinigt Euch!(ドイツ語)
万国の労働者よ、団結せよ!国歌: Die Internationale(ドイツ語)
インターナショナル
バイエルン・レーテ共和国の位置
公用語ドイツ語
首都ミュンヘン
政府主席
1919年4月6日 - 4月12日エルンスト・トラー
1919年4月12日 - 5月3日オイゲン・レヴィーネ
変遷
成立1919年4月6日
廃止1919年5月3日
通貨パピエルマルク(?)
現在 ドイツ
バイエルン州
エルンスト・トラー(1923年ごろ)オイゲン・レヴィーネ(1900年ごろ)
バイエルン・レーテ共和国(バイエルン・レーテきょうわこく、ドイツ語: Bayerische Raterepublik)は、第一次世界大戦後の1919年に、バイエルンで社会主義者たちが革命を起こして一時的に作った社会主義政権である。成立後すぐさま軍の討伐を受けて消滅している。
バイエルン州(バイエルン王国)の首都ミュンヘンにちなんでミュンヘン・レーテ共和国(Munchner Raterepublik)とも呼ばれる。また、「レーテ」(ドイツ語: Rate、評議会)はロシア語の「ソビエト」(Совет)と同義であることから「バイエルン(ミュンヘン)・ソビエト共和国」と意訳することもある。 第一次世界大戦末期のドイツ革命の流れの中での1918年11月7日夜半にプロイセン王国に先駆けてバイエルン王国で革命が発生した。11月8日朝には独立社会民主党の指導者クルト・アイスナーがヴィッテルスバッハ家による王政廃止と「バイエルン共和国」の建国を宣言してその首相に就任。アイスナーは、独立社民党と多数社民党に支えられてバイエルンにおいて独裁的な権力を握った。またアイスナーはベルリンの中央政府の社民党政権とは異なり、レーテ(労兵評議会)と対立せずにこれを取り込み、さらに農民評議会を起こして自己の基盤としていた。 ベルリン中央政府でもホーエンツォレルン家が廃されて多数社会民主党政権と独立社会民主党政権の二重政権が乱立したが、アイスナーは反ベルリン的な姿勢で持ってのぞみ、穏健左派的な中央政府を革命が足りないと批判していた。このアイスナーの反ベルリン姿勢は特にバイエルンの住民から支持された。バイエルンはドイツ帝国でも最も保守的な人たちが多い土地柄で、バイエルンのヴィッテルスバッハ家はプロイセンのホーエンツォレルン家より古い歴史を持つこともあって、プロイセンに対するライバル意識が強く、プロイセンを中心としたドイツ帝国が形成されたのちも反プロイセン的な感情を持つ住民が多かったためである。第一次世界大戦についても「プロイセン王が勝手に起こした戦争にバイエルン人が巻き込まれた」という総括をするような人が多かった。 ただしアイスナーはマルクスとカントを融合させた理想主義者であり、純粋な社会主義者ではなかった。社会主義者たちのプロレタリア独裁思想とは距離を取っていた。経済政策においても性急な社会化には反対した。アイスナーのこうした折衷的な態度は右翼からも左翼からも怒りを買うだけに終わった。反対する左翼たちは後にドイツ共産党となるスパルタクス団を創設した。1919年1月の選挙では右翼のバイエルン人民党が第一党となり、多数派社民党は第二党にとどまり、またアイスナーが属する独立社会民主党に至ってはわずか3議席しか取れなかった。さらに1919年2月21日には議会の開院式に向かう途中だったアイスナーが右翼の貴族青年将校アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライにより暗殺されている。 しかしこの暗殺は卑劣なテロとみなされて逆にアイスナーを支えた多数・独立両社民党が立場を強め、両社民党の政権は維持された。しかし共産党初め左翼たちはこれに不満を抱いた。
歴史
背景
レーテ共和国成立が中心となってバイエルンで革命が発生。多数派社民党のヨハネス・ホフマン首相のバイエルン政府はミュンヘンから追われ、バイエルン・レーテ共和国が樹立された。ホフマンは北方のバンベルクに政府を置き、バイエルンは二重政府状態になった。ホフマン政府とレーテ共和国の間で交戦が開始されてバイエルンは内乱状態に突入した。なおこの時のレーテ共和国にはドイツ共産党は参加しておらず、共産党はこのレーテ共和国が民心を掌握できていないのを見て、再革命による共産党中心の新たなレーテ共和国の建国を画策した。