ハーヴィー・ピーカー
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ハービー・ピーカー
Harvey Pekar

誕生 (1939-10-08) 1939年10月8日[1]
アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブランド
死没 (2010-07-12) 2010年7月12日(70歳没)
アメリカ合衆国 オハイオ州クリーブランドハイツ
職業漫画原作者事務員文学評論家音楽評論家
国籍アメリカ人
ジャンルアンダーグラウンド・コミックス
オルタナティヴ・コミック
主題自伝
代表作『アメリカン・スプレンダー
『Our Cancer Year』
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ハービー・ローレンス・ピーカー(Harvey Lawrence Pekar、1939年10月8日 - 2010年7月12日) はアメリカのアンダーグラウンド・コミック原作者、音楽評論家。自伝的なコミック作品『アメリカン・スプレンダー』で知られる。同作は2003年に同題で映画化され、好評を博した。

クリーブランド桂冠詩人」、「ラストベルト吟遊詩人」と呼ばれ[2][3][4][5]、「グラフィックノベルの――あるいは絵によるメモワールの、もしくは自伝的なコミック表現の――鑑賞と認識のされ方を変えるのに貢献した」[6]と評される。ピーカー自身は自作について以下のように語った。「起こった通りに書いた自伝だ。テーマは死なないこと、仕事に就くこと、一緒に暮らす女を見つけること、居場所を探すこと、創造性のはけ口を見つけること、そんなところだな。人生は消耗戦だ。すべての前線で戦いを続けなければならない。一つを倒しても終わりは来ない。俺は混沌の世界で意志を通そうとした。負け戦だ。だが退くわけにはいかない。やめようと思ったこともあるが、しかしどうしてもだめなんだ」[7]
生涯

ハービー・ピーカーと弟アレンはオハイオ州クリーブランドに生を受けた。父サウルと母ドーラはポーランドのビャウィストクからの移民であった。サウルはタルムード学者で、キンズマン・アベニューに所有する食料品店の階上に自宅を構えていた[8]。生まれ育った環境がかけ離れていたこともあり、仕事がすべてであった両親との関係は親密とはいえなかった。しかし、ハービーは「二人の互いへの献身には目を見張るものがあった。愛情と讃嘆が溢れていた」と述べている[9]

幼少期に初めて身につけた第一言語はイディッシュ語である。ハービーはイディッシュ語で文字を学び、小説を読むことを覚えた[10]。6歳の時からコミックブックを読み始めたが、数年のうちに陳腐な話の繰り返しだと感じて興味を失った[11]

幼少期には友達がいなかったという[12]。かつては近隣の住人は白人だけだったが、1940年代にはほとんど黒人と入れ替わっていた(ホワイト・フライト)。残されたわずかな白人の子供として、ピーカーはたびたび暴力を受けた。後に振り返ったところでは、この時期の体験を通して「根深い劣等感」を植え付けられた一方で[13]、「一目置かれるケンカ屋」へと成長したという[13]

1957年にシェーカーハイツ高校を卒業し、ケース・ウェスタン・リザーブ大学に進学したが、1年で退学した[8]。その後海軍に入隊したが、極度の不安により審査を通過できず除隊し、故郷のクリーブランドで低所得の職を転々とした。後にクリーブランドの退役軍人局病院でカルテ整理係の職に就き、コミック作家として名声を得てからもその仕事を続けた。2001年に退職するまで昇進を拒み続けたという[8][13]

ピーカーは3度結婚している。作家で教育者だったカレン・デラニーとの婚姻関係は1960年から1972年まで続いた[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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