ハーレム・グローブトロッターズ
チームロゴHarlem Globetrottersと金色のロゴ字が入ったバスケットボールを人差し指で支えている
創設1927年
チーム史ニューヨーク・ハーレム・グローブトロッターズ
(1928年-1929年)
ハーレム・グローブトロッターズ(1929年-)
本拠アリゾナ州フェニックス
アリーナ特定のホームコートを持たず移動している
チームカラー赤・白・青
オーナーシャムロック・キャピタル
ヘッドコーチクライド・シンクレア
マイク・セント・ジュリアン
バリー・ハーディー
テックス・ハリソン
ニコラス・カーディナル
優勝歴N/A
ファイナル進出N/A
ディビジョン優勝N/A
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ハーレム・グローブトロッターズ(Harlem Globetrotters)は、アメリカ合衆国アリゾナ州フェニックスに本拠を置くバスケットボールのエキシビションチーム。スポーツ性とコメディの両方を併せ持っているチームである。
グローブトロッターズは1927年、シカゴでエイブ・セイパースタイン
によって創設された。チーム名に「ハーレム」という名が冠せられたのは、それがアフリカン・アメリカンのコミュニティを暗示するものとされたからであった。チームは創設以来118ヶ国で20,000試合以上のエキシビション・ゲームを戦ってきた。ワシントン・ジェネラルズ(1953年-1995年)、ニューヨーク・ナショナルズ(1995年-)などとの対戦が多かった。チームソングはブラザー・ボーンズのスウィート・ジョージア・ブラウン(ホイッスル・バージョン)である。 グローブトロッターズの起源についての明確なコンセンサスはない。公式のチーム史[1]には、チームは1926年にサボイ・ボールルーム(1927年オープン[2])で結成されたとしているなど、明らかな誤りが含まれている。チームの起源について明らかにされているのは、シカゴのサウス・サイド[3]で1920年代に結成されたということである。チーム創設当時のメンバーはみなサウス・サイドの出身で、全員かその多くがウェンデル・フィリップス高校に通っていた。1927年にサボイ・ボールルームがオープンすると、ダンスの前にサボイ・ビッグ・ファイブというバスケットボールのエキシビションが行われ、初期におけるアトラクションのひとつとなっていた。1928年、チームを離れた選手を連れ戻すか否かで争いとなり、それがもととなって数人の選手がチームを離れた。同年秋、トミー・ブルックリンに率いられた数人の選手が「グローブトロッターズ」と呼ばれるチームを結成し、冬にはイリノイ州南部各地を転々としながら試合を行った。どのような経緯からかは明らかではないが、エイブ・セイパースタイン
歴史
初期
グローブトロッターズの最初のスタープレイヤーはアルバート・「ラント」・プリンズであった。プリンズはドリブル・シュートのいずれにおいても秀でていた。その後すぐに193cmの身長を持ち、人目を引く才能を持つセンター、インマン・ジャクソンがチームに加入した。この2人の存在が、後々にも長くグローブトロッターズの特徴となる、ドリブラーとショーマンを兼ね備えるチーム性の根源となった[5]。
当初はグローブトロッターズは勝利を追求したチームで、ある種の娯楽志向はあったものの、安全圏と言えるリードをつけるまでは観客に対しておどけることはしなかった。1937年、グローブトロッターズは世界プロバスケットボールトーナメントに招待された。チームは準決勝まで進んだが、グローブトロッターズ同様全員アフリカン・アメリカンのチームであるニューヨーク・ルネサンスに破れた。勝ったルネサンスはその年のトーナメントで優勝した。1940年、再びトーナメントに出場したグローブトロッターズは準々決勝でルネサンスと対戦し、勝利して3年前のリベンジを果たした。チームはそのまま決勝に進んでシカゴ・ブルーインズと対戦、延長の末37-36で勝利し、優勝した。
グローブトロッターズは初期のプロチームとも戦って勝利を収めた。ミネアポリス・レイカーズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)には1948年・1949年と2年連続で勝利した。1948年2月の61-59での勝利は、アフリカン・アメリカンばかりのグローブトロッターズが白人ばかりのレイカーズに勝つことで、互角に戦い得ることを証明した、プロバスケットボール史上に残る試合であった。やがてNBAにおける人種隔離撤廃の機運が高まり、1950年にNBA史上初の黒人プレーヤーとしてチャック・クーパーがボストン・セルティックスに入団した。しかしその頃から、グローブトロッターズは人材獲得に悩むようになった。
最後のグローブトロッターズ創設メンバーはトニー・ペイトンである。ペイトンは1996年にマサチューセッツ州スプリングフィールドにあるバスケットボール殿堂入りを果たした。ペイトンは2007年7月23日にテキサス州ミッドランドで85年の生涯を閉じた。グローブトロッターズのメンバー、メドウラーク・レモンが当時のファーストレディ、ベティ・フォードにサイン入りボールを渡しているところ。1974年。 グローブトロッターズは次第にコメディ的な要素を取り入れるようになっていき、スポーツよりもエンタテイメントとしてその名を広めていった。グローブトロッターズのパフォーマンスにはバスケットボールでジャグリングをしたり、指先でボールを支えて回したり、通常の試合では行われない、難度の高いショットを繰り出したりといった、ボールを器用に用いてのものがよく含まれていた。 グローブトロッターズに在籍していた選手には、ウィルト・チェンバレン、コニー・ホーキンス、ネイサニエル・クリフトン
成功への道を探して
事実上全ての選手がアフリカン・アメリカンで、そのパフォーマンスの多くに下品なジョークを含んでいたため、公民権運動の時代にはグローブトロッターズは批判の対象となることがあった。選手たちは「白人に卑屈な態度を取る黒人」を意味するUncle Tom(アンクル・トムの小屋より派生)と白人のオーナーであるエイブ・セイパースタインにかけてTomming for Abeと揶揄された。しかし、公民権運動家ジェシー・ジャクソンはグローブトロッターズを擁護し、次のように述べた。I think they've been a positive influence... They did not show blacks as stupid. On the contrary, they were shown as superior.(私は、彼らは良い影響を与えていると考える。彼らは黒人が馬鹿であるということを示しているわけではない。むしろ、優れているということを示している。)
近年グローブトロッターズのユージーン・エドガーソンがレイアップシュートの体勢を取っているところ
1970年代から1980年代にかけて、チームはメトロメディアの管理下に置かれていた。ワシントン・ジェネラルズやニューヨーク・ナショナルズとの試合のほか、ハンナ・バーベラ・プロダクション制作の漫画をはじめ、様々なテレビシリーズや特別番組に姿を見せるようになった。衰退が続いた後、1993年にグローブトロッターズの経営権はかつてのチームメイトであるマニー・ジャクソンに買い取られた。その後チームは盛り返し、2002年にはチーム全体がバスケットボール殿堂入りした。