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ハーラル3世
Harald III Hardrade
ノルウェー国王
スコットランド・オークニー諸島の州都カークウォールにある聖マグヌス大聖堂(英語版)のステンドグラスに描かれているハーラル3世
在位1046年 - 1066年
出生1015年
ノルウェー、リンガーリカ
死去1066年9月25日
イングランド王国、ヨークシャー、スタンフォード・ブリッジ
埋葬 ノルウェー、トロンハイム
配偶者エリザヴェータ・ヤロスラヴナ
トーラ・トールベルグズドーテル
子女インゲゲルド
マグヌス2世
オーラヴ3世
家名シュル家
王朝ホールファグレ朝
父親シグル・シュル
母親オースタ・グドブランズドーテル
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ハーラル3世“苛烈王”(ノルウェー語:Harald Hardrade、1015年 - 1066年9月25日)は、ノルウェー王(在位:1046年 - 1066年)で、ハーラル1世(美髪王)4代目の子孫にあたる。オーラヴ2世の異父弟。父は、ノルウェー東部の小王の〈シグル・シュル(雌豚のシグルズ)(英語版)〉。英語文献の翻訳などでは「ハラルド・シグルズソン」などの表記もみられる[1]。
略歴『ハラルド(ハーラル)苛烈王のサガ』の一場面
1030年、ハーラルの異父兄オーラヴ2世が2年前から喪失していたノルウェー王位を奪還するため、スティクラスターの戦い(英語版)でノルウェー反乱貴族の軍勢と激突した。兄オーラヴ2世と共に戦闘に参加したハーラルであったが、敢えなく戦闘は反乱軍側の勝利に終わり、オーラヴは戦死。ハーラルも這々の体で戦線離脱し、そのままキエフ公国へ亡命した。そしてハーラルは当時のキエフ大公ヤロスラフ賢公に仕え多くの戦役に参加し、結局はキエフ公国の将軍の地位にまで昇り詰めた。その後、1034年頃、ハーラルはビザンツ帝国へ移り、ヴァラング親衛隊(英語版)の司令官として帝国に仕えた。ビザンツ帝国で軍人として過ごした間、ハーラルは地中海や小アジア、シチリア島や聖地イェルサレム、ブルガリアやといった帝国各地で様々な戦役に参加した。また、では当時のビザンツ皇帝ミカエル4世の寵愛を受け昇進を続けたハーラルであったが、ミカエル4世の没後、ビザンツ皇族内で発生した内紛に一時巻き込まれた。ビザンツ帝国での華々しい軍歴によりハーラルは巨万の富を築き上げ、その貯蓄は保管のためにキエフ公国のヤロスラフ公に運送されたほどであった。1042年、ハーラルは遂にビザンツ帝国を離れ、再びキエフ公国に戻った。そこでハーラルはノルウェー王位奪還を目論み軍事遠征の準備を行った。おそらくハーラルは、自身がキエフに亡命した頃デンマークの君主クヌート大王によって奪われいたノルウェー王位が、大王の没後、自身の亡命生活中にオーラヴ2世の非嫡出子マグヌス善王の手によって取り返されていたことを知っていたのかもしれない。
1046年、ノルウェー遠征に乗り出したハーラルはマグヌス善王のデンマークでの政敵でデンマーク王位請求者スヴェン2世と手を組み、デンマーク王国沿岸部を襲撃してまわった。(当時マグヌス善王はデンマーク王でもあったからだ。)しかし、マグヌスは自分の叔父であるハーラルと戦う気がなかったため、ハーラルの富を分かち合うことを条件にノルウェーをハーラルと共同統治することに同意した。そんなマグヌスとの共同統治は翌年のマグヌスの死によってあっけなく終わり、ハーラルは遂に単独のノルウェー王となった。ノルウェー国内では、ハーラルは地元の抵抗勢力を全て打ち破り、ノルウェー王国の版図を確定した。ハーラルの治世はおそらく比較的平和で安定し、国内の貨幣経済を確立し諸外国間の貿易も押し進めた。ハーラルはおそらく、クヌート大王が作り上げていた北海帝国を自分の手で再び作り上げようと試みていたのであろう。そんなハーラルはデンマーク王位を主張し始め、1064年までほぼ毎年、デンマーク沿岸部を荒らし回り、先の同盟者スヴェン2世と戦った。彼の軍事遠征は成功したものの、デンマークを征服することはなかった。
ハーラルはその後デンマーク王位の主張を引き下げたが、それから程なくして、イングランドよりとある貴族が彼を訪ねてきた。先のノーザンブリア伯(英語版)トスティ・ゴドウィンソンである。トスティは当時のイングランド国王ハロルド・ゴドウィンソンの戴冠に反対しており、ハーラルに対してイングランド征服の支援を要請してきたのだ。ハーラルはトスティの要請を受け、1066年9月、10,000の軍団と300隻のロングシップを率いてイングランド北部に遠征した。そしてイングランド沿岸を荒らし回り、1066年9月20日、ハーラル・トスティの軍勢を討伐すべく目前に立ちはだかったノーザンブリア伯モルカル(英語版)・マーシア伯エドウィンの軍勢とヨーク南部のフルフォード村にて衝突し、これを打ち破った。ハーラルのイングランド遠征は順調に進むかのように見えたが、ハーラルの思惑は外れた。彼の予想を遥かに上回る早さでイングランド王ハロルド2世率いるイングランド主要部隊がノルウェー軍を目掛けて北上してきたのだ。1066年9月25日、ハーラル率いる9千の軍勢はハロルド率いる1万の軍勢から奇襲を受け、ハーラル・トスティともども討ち果たされた。ハーラルの軍勢はほぼ全滅した。現在の歴史家たちは、ハーラルの戦死によって、ノルウェーのイングランド遠征は潰えてしまったが、彼の死は遠征のみならず、ヴァイキングの時代に幕を閉じるきっかけにもなったであろう考えている。
『ハーラルが戦死したとされるスタンフォード・ブリッジの戦いを描いた絵』
ハーラルの死後、ノルウェーは2人の息子マグヌス2世(英語版)とオーラヴ3世が共同統治した。 スティクラスターの戦い
東方での亡命生活
キエフ大公国への亡命