ハーメルン
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この項目では、ドイツの都市について説明しています。その他の用法については「ハーメルン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

紋章地図
(郡の位置)

基本情報
連邦州:ニーダーザクセン州
郡:ハーメルン=ピルモント郡
緯度経度:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度06分16秒 東経09度21分24秒 / 北緯52.10444度 東経9.35667度 / 52.10444; 9.35667座標: 北緯52度06分16秒 東経09度21分24秒 / 北緯52.10444度 東経9.35667度 / 52.10444; 9.35667
標高:海抜 68 m
面積:102.53 km2
人口:

57,394人(2021年12月31日現在)[1]
人口密度:560 人/km2
郵便番号:31785, 31787, 31789
市外局番:05151, 05158
ナンバープレート:HM
自治体コード:

03 2 52 006
行政庁舎の住所:Rathausplatz 1
31785 Hameln
ウェブサイト:www.hameln.de
首長:クラウディオ・グリーゼ (Claudio Griese)
郡内の位置

地図

ハーメルン (ドイツ語: Hameln, ドイツ語発音: [?ha?ml?n] ( 音声ファイル)[2]) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州の大規模自立都市でハーメルン=ピルモント郡の郡庁所在地である。ヴェーザー川に面するこの都市は、1284年に生じた『ハーメルンの笛吹き男』の伝説で知られる。
地理
位置

ハーメルンはハノーファーの南西、西のヘルフォルトと東のヒルデスハイムとの直線上のほぼ中間(それぞれ約 40 km)に位置する。この都市はヴェーザーベルクラント・シャウムブルク=ハーメルン自然公園の中心にあたり、ヴェーザー川の上流部が市内を流れ、ハーメル川(東岸)とフンメ川(西岸)が合流する。クリュート塔

海抜 68 m に位置する市街のすぐ西側にクリュート山(海抜258m)がそびえ、クリュート塔(展望塔)とクリュートハウス(レストラン)がある。
市の構成

ノルトシュタット

ジュートシュタット

ヴェスト/クリュートフィーアテル

オスト/バスベルク

ミッテ/アルトシュタット(旧市街)

ヴェール

アッフェルデ

ハステンベック


ハルフェストルフ(ハルフェストルフ、バンネンジーク、ヴァイデホール、ホーペからなる)

ハーフェアベック

ヒリクスフェルト(グロース・ヒリクスフェルト、クライン・ヒリクスフェルトからなる)

ジュンテルタール(ホルテンゼン、ウンゼン、ヴェリーハウゼンからなる)

クライン・ベルケル/ヴァンゲリスト

テュンデルン

ヴェールベルゲン

ロールゼン


気候

中部ヴェーザーベルクラントの一部であるハーメルンは、穏やかな冬と湿潤な夏に特徴づけられる亜大西洋気候の強い影響下にある。同時にほどほどに寒い冬と暑い夏を特徴とする大陸性気候の影響が時に現れる。年間降水量は720mmから820mmである。夏の平均気温は10.5℃、冬は8.2℃である。
歴史
都市の成立

ハーメルン市内最初の定住の痕跡は、石器時代にまで遡る。現在の旧市街にあたる場所に、初めて村落の構造が形成されたのがいつであるのかは明らかではない。

802年または812年ザクセンのベルンハルト伯とその妻クリスティーナは、ハーメルンの所領にティリティガウの私有教会を建設した。826年に2人は子をもうけないまま亡くなり、所領はフルダ修道院のものとなった。またフランク王国の時代にはハーメルン近辺にヴェーザー川を渡る橋が築かれており、橋の近くには、橋を維持管理させるための隷農の集落が存在していた。現在のハーメルンの旧市街中心部、マルクト教会の西側の一帯がこの集落のあった地域である。

フルダ修道院が建設した聖ボニファティウス律院とヴェーザー川の渡河点の集落が結びついて中世都市へと移行していったのは12世紀初頭で、その中心となったのはエーフェルシュタイン伯家のアルブレヒト3世ことアルベルト3世[3]リクサ・シロンスカの3度目の夫)であった。エーフェルシュタイン伯家はフルダ修道院の名目上の支配権を認めつつ、聖ボニファティウス律院の院長を自家から出すという方法で、実質的なハーメルンの支配権を奪取した。1243年にはハーメルン市参事会と聖ボニファティウス律院との間に、双方の権利の及ぶ範囲を確定させる文書が交わされ、中世都市としてのハーメルンの骨格が完成した。

1259年2月13日、フルダ修道院は事実上その支配権を失ったハーメルン市をミンデン司教区に500マルクで売却。7月までにはこの取引がケルン大司教に承認され、ハーメルン市はミンデン司教の封主権を認めよとの通知がハーメルン市に届いた。しかしエーフェルシュタイン伯家とハーメルン市はこれを拒否し、1260年7月28日、ハーメルン市の市民軍はゼーデミューンデ付近でミンデン司教軍と激突。ハーメルン市民軍は壊滅し、生き残った市民兵の多くがミンデンで処刑された。また、詳しい事情は不明であるが、同年9月13日に交わされた条約でミンデン司教はハーメルン市からの税収の半分を、エーフェルシュタイン伯家と敵対関係にあった大貴族であるブラウンシュヴァイク公ヴェルフェン家)のアルブレヒト1世に与えている。

1277年、エーフェルシュタイン伯家はハーメルン市守護職の権利をブラウンシュヴァイク公家に売却。相前後してエーフェルシュタイン伯家の領地や城の大半はブラウンシュヴァイク公家のものとなり、ハーメルン市の建設を主導したエーフェルシュタイン伯家は衰退していった。ハーメルン市はブラウンシュヴァイク公家のアルブレヒト1世を君主に頂く領封都市となった。
ねずみ取り現存する最古(1592年)の笛吹き男の絵画

ハーメルンが国際的知名度を得たのは、1284年の「ハーメルンの子供たちの消失」によってであり、この事件は後に『ハーメルンの笛吹き男』の伝説に発展した。この年号は中世後期に確定されたもので、現存する最も古い記録は1430年から1450年頃のもの(リューネブルク写本)である。現在でもこの街は、「Rattenfangerstadt Hameln」(ネズミ捕りの街ハーメルン)と公式に称している。この街は、ハーメルンの笛吹き男をシンボルとしてドイツ・メルヘン街道に参加している。
ハンザ同盟と三十年戦争

ハーメルンは1426年ハンザ同盟に加盟し、1572年までこれに属した。1540年、この街に宗教改革がなされた。

16世紀に経済的な発展があり、繁栄は三十年戦争まで続いた。この時代には裕福な商人と地方貴族が争うように豪華なヴェーザールネサンス様式の建築物を建設し、それらは現在も街を彩っている。

三十年戦争の進行に伴い、ニーダーザクセン帝国クライスの最高司令官であるデンマーク王クリスチャン4世1625年にこの街を占領した。翌1626年には皇帝軍のティリー伯がこれを奪った。皇帝軍による支配は、1633年ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ゲオルクとスウェーデン軍とが皇帝の占領軍を破るまで続いた。ヘッシシュ・オルデンドルフ近郊で皇帝軍が敗北した後、ハーメルンは7月13日(グレゴリウス暦、ユリウス暦では7月3日)にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公の支配下に復した[4]
要塞化17世紀のハーメルン(マテウス・メーリアンの銅版画)

この都市をヴェストファーレンの「Haupt- und Prinzipalfestung」(最重要要塞)とする拡充が1664年に始まった。

1690年、ブラウンシュヴァイク公の配慮により、フランスからのユグノー派亡命者がハーメルンに住むこととなった。

1734年、ハーメルン近郊のヴェーザー川に初めて国営の堰が設けられ、船舶は航行の難所であった「ハーメルナー・ロッホ」を克服できるようになった。

イギリス王にしてハノーファー選帝侯ジョージ2世1760年に亡くなった後、後継者のジョージ3世七年戦争の間(1756年 - 1763年)もクリュート山に砦を築くことでハーメルン要塞の強化を続けた。


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