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ハーメルンのマルクト教会にあるステンドグラスから模写された、現存する最古の笛吹き男の水彩画(アウグスティン・フォン・メルペルク画、1592年)
ハーメルンの笛吹き男(ハーメルンのふえふきおとこ、独: Rattenfanger von Hameln、英語: Pied Piper of Hamelin)は、現在のドイツの街ハーメルンにおいて1284年6月26日に起きたとされる出来事についての伝承である。グリム兄弟を含む複数の者の手で記録に残され、現代まで伝わった。
伝承の概要笛吹き男のパレード(2009年、ハーメルン)
1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。ある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男[注釈 1]が現れ、報酬をくれるなら町を荒らし回るネズミを退治してみせると持ちかけた。ハーメルンの人々は男に報酬を約束した。男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。しかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を反故にして(笛を吹いて誘導し、川に沈めただけという簡単な仕事に対して報酬が高すぎて、納得できなかったとも言われる)報酬を払わなかった。
約束を破られ怒った笛吹き男は「お前たちの大切なものを代わりにいただこう」と捨て台詞を吐きいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び現れた。住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。130人の少年少女は笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にある洞穴の中に入っていった。そして、穴は内側から岩で塞がれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供のみが残されたと伝える。 この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られる[1]。14世紀から17世紀にかけての複数の記録がこのステンドグラスについて述べている。このステンドグラスは1660年に破壊された。残された文献に基づいて、ハーメルンの郷土史家ハンス・ドバーティン
歴史
このステンドグラスには以下に記す説明文が添えられていた。Anno 1284 am dage Johannis et Pauli
war der 26. junii
Dorch einen piper mit allerlei farve bekledet
gewesen CXXX kinder verledet binnen Hamelen gebo[re]n
to calvarie bi den koppen verloren ? ⇒http://www.triune.de/legend
この文章は、概ね以下の日本語に訳される。
1284年、聖ヨハネとパウロの記念日
6月の26日
色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に
130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった
コッペン(Koppen、古ドイツ語で「丘」の意)とは、ハーメルンの街を囲むいくつかの丘の一つであるとされるが、どれを指すのかは不明。
このステンドグラスは、ハーメルン市の悲劇的な史実を記念して制作されたと一般には考えられている。また、ハーメルン市の記録はこの事件から始まっている。ハーメルンの最古の記録は、1284年の出来事を起点にした年代記として述べられている。
「我らの子供達が連れ去られてから10年が過ぎた[2]。」
何世紀にもわたる調査にもかかわらず、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事についての明確な説明は与えられていない。いかなる調査結果においても、1559年頃に初めて物語にネズミの集団発生が追加されており、それ以前の記録ではネズミは登場しない。 この伝承の背後に潜む意味を説明するために、多数の説が提出されてきた。ヴォルフガング・ヴァンはそれらを、舞踏病、移住、子供の十字軍、巡礼、作り話、溺死、山崩れ、誘拐、戦死、疫病など25種類に分類しており、解釈は様々である。 最も広く支持されている説は[3][4] 、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。この時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。この主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。 この説のバージョンの一つは1955年に『サタデー・イブニング・ポスト』誌で発表された[5]。植民説の裏付けとなるのは、ハーメルンの旧家の壁から発見された文章である。その述べるところによれば、1284年6月26日に、笛吹き男が130人の子供を街の外へ連れ去り、おそらくはその笛吹き男はモラヴィア(現在のチェコ共和国の一地方)への植民運動を組織していたオロモウツの司教ブルーノ・フォン・シャウンブルクの代理人であったという[6][7]。シャウンブルク司教自身もまたボヘミア王オタカル2世の代理人として行動していた[8]。 更なる考察を加えれば、植民説は13世紀のドイツ地域はあまりにも多くの人口を抱え込んでいたため、長男のみが土地と権力の全てを相続し、他の者は農奴となるしかなかったとの考え方に基づいている[9]。後に黒死病がこの不均衡を破壊した[9]。 また、子供の移民が記録されていない理由の一つとしては、子供達は東ヨーロッパのバルト地方からやって来た植民請負人
伝説の起源に関する仮説
ハーメルン市の公式ウェブサイトに掲載されている笛吹き男伝説のバージョンでは、移民説の別の側面が提示されている。様々な解釈の中で、低地ドイツ地方から出発した東ヨーロッパへの移民説がもっとも説得力のある解釈である。「ハーメルンの子供たち」とは、モラヴィア、東プロイセン、ポメルン、チュートン地方への移住を募集する地主達により、移民の意思を抱いていた当時のハーメルン市民の事だったのであろう。過去の時代には、現代でもしばしば行われているように、町の住民全てが「○○の子供達」あるいは「○○っ子」と呼ばれていたのだと推測される。やがて「子供達の集団失踪の伝説」は「ネズミ駆除の伝説」に統合された。この伝説はまず例外なく、中世の製粉所のある町の最大の脅威であったネズミの集団発生と、時には成功を収め時には失敗する職業的ネズミ駆除人について述べている ? ⇒The Legend of the Pied Piper Rattenfangerstadt Hameln September 3. 2008 参照
この解釈では、「子供達」とは単に移民の道を選んだハーメルンの住民のことであり、特に若年層の事を指していた訳ではないのだろうと述べられている。
言語学者ユルゲン・ウドルフの研究を出典として、歴史学者のウルズラ・ザウターは移民説の根拠となる以下の仮説を述べている。「1227年にボルンホーフェトの戦いにおいてデンマーク軍を撃ち破った後」とウドルフは説明する。