ハーマン・J・マンキーウィッツ
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Herman J. Mankiewicz
ハーマン・J・マンキーウィッツ

本名Herman Jacob Mankiewicz
生年月日 (1897-11-07) 1897年11月7日
没年月日 (1953-03-05) 1953年3月5日(55歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク市
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ハリウッド
国籍 アメリカ合衆国
職業脚本家
活動期間1926年 - 1952年
配偶者Sara Aaronson (1920 - 1953)
著名な家族ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ(弟)
フランシス・マンキーウィッツ(英語版)(又従兄弟の息子)
ドン・マンキーウィッツ(英語版)(長男)
フランク・マンキーウィッツ(英語版)(次男)
トム・マンキーウィッツ(甥、ジョーゼフの息子)
ジョン・マンキーウィッツ(英語版)(孫、ドンの息子)
ジョシュ・マンキーウィッツ(英語版)(孫、フランクの息子)
ベン・マンキーウィッツ(英語版)(孫、フランクの息子)
ニック・デイヴィス(英語版)(孫、娘ジョハンナの息子)
主な作品
市民ケーン

 受賞
アカデミー賞
脚本賞
1941年市民ケーン
その他の賞

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ハーマン・ジェイコブ・マンキーウィッツ(Herman Jacob Mankiewicz, 1897年11月7日 - 1953年3月5日)はアメリカ合衆国脚本家である。アカデミー脚本賞を受賞した1941年の『市民ケーン』の脚本家として知られる。オスカー監督であるジョーゼフ・L・マンキーウィッツは実弟。
経歴

1897年、ニューヨーク市で生まれる。父親のフランツ・マンキーウィッツはベルリン生まれで1892年にハンブルクからアメリカに移住して来た。1917年、コロンビア大学を卒業。編集者として働いた後、アメリカ陸軍に入隊。

1920年から1922年まで『シカゴ・トリビューン』紙の海外特派員としてベルリンに滞在。その間に執筆活動を始める。1925年から1926年まで『ザ・ニューヨーカー』誌で演劇の批評コラムを書く。これがハリウッドのプロデューサー、ウォルター・ウェンジャーの目に留まり、パラマウント映画と契約、ハリウッドで脚本家として働くようになる。

1941年の『市民ケーン』でアカデミー脚本賞を受賞。

1953年、尿毒症で死去。
主な作品

マンダレイの道
- The Road to Mandalay (1926)

パリで御難 - Stranded in Paris (1926)

近代女風俗 - Fashions for Women (1927)

サンダーボルト - Thunderbolt (1929)

放浪の王者 - The Vagabond King (1930)

摩天楼の巨人 - Ladies Love Brutes (1930)

名門芸術 - The Royal Family of Broadway (1930)

街の紳士 - Man of the World (1931)

愛欲の果て - Ladies' Man (1931)

火の翼 - The Lost Squadron (1932)

闇に踊る - Dancers in the Dark (1932)

頓珍漢嫁探し - Girl Crazy (1932)

晩餐八時 - Dinner at Eight (1933)

駄法螺男爵 - Meet the Baron (1933)

或る夜の特ダネ - After Office Hours (1935)

逢瀬いま一度 - Escapade (1935)

市民ケーン - Citizen Kane (1941)

打撃王 - The Pride of the Yankees (1942)

クリスマスの休暇 - Christmas Holiday (1944)


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