ハーマン・ハイネ・ゴールドスタイン(Herman Heine Goldstine、1913年9月13日 - 2004年6月16日)は、アメリカ合衆国の数学者・計算機科学者である。
プリンストン高等研究所でIASマシンのプロジェクトを指揮し、初の電子デジタルコンピュータであるENIACの開発を支援した。その後、IBMに転職し、IBMで最も権威のある技術職であるIBMフェローとして同社に長く勤めた。 ハーマン・ハイネ・ゴールドスタインは、1913年にシカゴでユダヤ人の両親の下に生まれた。シカゴ大学に入学し、1933年に数学の学位、1934年に修士号、1936年に博士号を取得した。その後3年間、ギルバート・エイムズ・ブリス
生涯
退職後、ゴールドスタインは1985年から1997年までフィラデルフィアのアメリカ哲学協会の事務局長に就任した。
ゴールドスタインは、2004年6月16日にペンシルベニア州ブリンマー(英語版)の自宅で、パーキンソン病による長い闘病生活の末に亡くなった。彼の死は、IBMのトーマス・J・ワトソン研究所によって発表され、博士研究員フェローシップ制度にゴールドスタインの名前がつけられた。 アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦したため、ゴールドスタインは1942年7月にミシガン大学を去り、陸軍に入隊した。彼は尉官に任命され、メリーランド州・アバディーン性能試験場の弾道研究所(BRL)で射表を計算する兵器数学者として勤務した。射表は、数マイルの射程を持つ大砲の適切な仰角と方位角を求めるために使用された。 射表の計算は、機械式卓上計算機を操作する約100人の女性計算手によって行われた。1つの砲弾の軌道を計算するには約750の計算が必要で、少なくとも7時間は計算手が作業を行う必要があった[1]。作業の効率を上げるために、BRLはペンシルベニア大学電気工学部(ムーアスクール)の計算施設を兵籍に入れた。ゴールドスタインはBRLと大学の連絡窓口となった。 ムーアスクールの機械式微分解析機を調整しながら、技術者のジョセフ・チャプラインはゴールドスタインに、ジョン・モークリーの元を訪問することを提案した。モークリーはムーアスクールの物理学の教員で、真空管を使用した電子計算機により計算を何千倍も高速化できることを提案するメモを配布していた。モークリーは提案書を書き、1943年6月にモークリーとゴールドスタインはこのプロジェクトのために陸軍から資金を確保した。ENIACは30か月で200,000人時をかけて建設された。ENIACは巨大で、大きさが30×60フィートもあり、18,000本の真空管を使用し 30トンの重量があった。この装置は20個の数字しか保存できず、プログラムに数日かかった。ENIACは第二次世界大戦の終戦後の1945年後半に完成した。 ENIACが戦争の遂行に貢献しなかったことには失望したにもかかわらず、電子コンピュータの開発に対する陸軍の関心は依然として強かった。ENIACの完成前に、陸軍とムーアスクールはEDVACと呼ばれる後継機を建設する契約を行った。ゴールドスタイン、モークリー、プレスパー・エッカート、アーサー・バークスは、ENIACの欠陥を修正することを期待して、新しいマシンの開発を研究し始めた。ハーマン・ゴールドスタイン、プリンストン高等研究所にて(左からジュリアン・ビゲロー
業績
弾道研究所とムーアスクール
ENIAC
EDVAC
ジョン・フォン・ノイマンとの出会い