ハーブ・ハーデスティ
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ハーブ・ハーデスティ
Herb Hardesty
ハーブ・ハーデスティ (1980年)
基本情報
出生名Herbert Hardesty
生誕1925年3月3日
アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ
死没 (2016-12-03) 2016年12月3日(91歳没)
アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス
ジャンルR&Bジャズ
職業サクソフォン奏者、トランペット奏者
担当楽器テナー・サクソフォントランペット
活動期間1939年 ? 2016年
レーベルマーキュリー・レコード、フェデラル・レコード、パオリ・レコード、ミューチュアル・レコード
共同作業者ファッツ・ドミノデイヴ・バーソロミュー

ハーブ・ハーデスティ (Herb Hardesty、1925年3月3日 - 2016年12月3日)は米国のテナー・サクソフォン/トランペット奏者。1948年に始まったニューオーリンズのピアニストのファッツ・ドミノ、プロデューサーのデイヴ・バーソロミューとの仕事が最もよく知られている。
来歴
若年期

ハーデスティは1925年3月3日ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれた[1]。6歳のとき学校でトランペットのレッスンを受けるようになった。その当時使っていたトランペットは、義父がルイ・アームストロングから譲り受けたものだった[2]。彼はまたプロフェッサー・ヴァルモア・ヴィクターにも師事し、地元の公共事業促進局のビッグバンドで演奏するようになった。1939年には、パパ・セレスティン、シドニー・デヴィーンらが率いるバンドで演奏し金を稼ぐようになっていた。チック・ウェブも自身のオーケストラでの演奏を依頼していた[2]

1941年には、入隊可能な年齢に2歳足りなかったにもかかわらず軍隊に入隊。ミシシッピ州ジャクソンアメリカ陸軍航空隊で彼はバンドのサクソフォン奏者を買って出た。上官がアルト・サクソフォンを買い与えると、彼はその演奏方法を2日間で習得したという[3]。彼の軍隊における訓練はアラバマ州タスキーギで継続された。また彼は第99飛行訓練戦隊の無線技術師として、モロッコイタリア並びにドイツ駐在を経験、タスキーギ・エアメンとして後に知られることになる部隊の一員となった。時間が許せば、彼は地元ヨーロッパのミュージシャンたちとトランペット、アルト・サクソフォンをプレイした[4]。終戦後、ハーデスティはニューオーリンズに戻り、ディラード大学に入学した。
キャリアの初期

ハーデスティ自身初のトリオは、彼の自宅から数ブロック離れたニューオーリンズのクレイボーン・アヴェニューのハリケーン・バーで演奏していた。そこではハーデスティはダブルベースを弾き、ギタリストとピアニストを伴うナット・キング・コールのグループに似たスタイルだった[1]。間もなく彼はテナー・サクソフォンを購入しレッスンを受けるようになった。そして1948年にフォー・デュークスというグループを結成。ハーデスティはトランペットとテナー・サクソフォンを担当した[5]

ハーデスティは1946年デイヴ・バーソロミューと出会い、1949年バーソロミューは、デラックス・レコードによるチャビー・ニューサムの「New Orleans Lover Man」のレコーディング・セッションに彼を誘った[1]。このセッションに参加したミュージシャンには、ドラマーのアール・パーマー、ベーシストのフランク・フィールズ、そしてギタリストのアーネスト・マクリーンがいた。彼らにバーソロミュー、ハーデスティを加えたメンバーは1950年代にコズィモ・マタッサのJ&Mレコーディング・スタジオで多くのヒットをレコーディングしたスタジオ・バンドの核をなしていた。1949年の後半には、ハーデスティは歌手のロイ・ブラウンと6ヶ月ほどに及ぶツアーに出ている[1]

ニューオーリンズへの戻ると、ハーデスティは再びバーソロミューの用意したセッションに参加している。その中には、1949年11月29日のジュウェル・キングの「3 x 7 = 21」、トミー・リッジリーの「Shrewsbury Blues」などがあった[1]。1949年12月10日、彼は後にロックの殿堂入りを果たすファッツ・ドミノの初めてのレコードとなった「The Fat Man」のレコーディングに参加した。1950年代前半にハーデスティはドミノのみならず、他のアーティストとのスタジオ・ワークにも取り組んだ。その中にはロイド・プライス (「ローディ・ミス・クローディ」のサックス・ソロは彼である)、シャーリー・アンド・リー、スマイリー・ルイスT-ボーン・ウォーカービッグ・ジョー・ターナーリトル・リチャード等がいた。また彼は時折、地元のクラブにも出演し、ライヴを行っていた。1953年には、彼はレイ・チャールズのツアーのためのバンドのメンバー集めとリハーサルを手伝っている[1]
ファッツ・ドミノとの活動

1955年、バーソロミューはハーデスティに対し、ファッツ・ドミノのツアーのメンバーに加わるよう要請した。このバンドが1955年3月にロサンゼルスの5-4ボールルームで演奏した際、その場にいた写真家がハーデスティが背中に回してテナー・サックスをプレイする写真を撮影し、この写真がライフ1955年4月18日号に掲載された。ファッツ・ドミノは写真に映ってはいなかったものの、彼のことが同誌の中で触れられるはこのときが初めてだった[1]。同じロサンゼルスへのツアーの最中にレコーディング・セッションも行われ、このセッションからは「Blue Monday」がヒットとなっている。ここでハーデスティはバリトン・サックスをプレイした。彼がこれをプレイした理由は、他のプレイヤーではいいサウンドを得ることができなかったからだという。ハーデスティがバリトン・サックスをプレイしたのはこのとき1回だけである。とある音楽ライターは、彼のこのソロについて以下のように述べている。「想像しうる最も完璧な内容だ。8小節のサックスのブレークは恐ろしいほど無駄がなく、至宝と呼ぶに相応しい。それは最も記憶に残る、ブルース・フィーリングに溢れ、かつシンプルなプレイのひとつであり、R&B全般を特徴づけるものだ」[6]。その他ドミノの著名な曲でハーデスティのテナー・サックスのソロが聴けるものには「I’m Walkin’」、「Ain’t That A Shame」、「Let The Four Winds Blow」などがある。
ソロ・アーティストとして

ハーデスティのソロ名義のレコーディングは1957年から行われている。最初の2曲はギタリストのミッキー・ベイカーによって設定されたもののリリースはされず、その音源が現存するかは確認されていない[1]


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