ハービー・マン
[Wikipedia|▼Menu]

ハービー・マン
Herbie Mann
ハービー・マンとウィル・リー(1975年)
基本情報
出生名Herbert Jay Solomon
生誕 (1930-04-16) 1930年4月16日
出身地 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン
死没 (2003-07-01) 2003年7月1日(73歳没)
ジャンルファンクジャズボサノヴァディスコワールドミュージック
職業ミュージシャン、レコードレーベル役員
担当楽器フルートサクソフォーンバスクラリネット
活動期間1953年 - 2003年
レーベルアトランティック・レコード
コティリオン・レコード
エンブリオ・レコード
ココペリ・レコード
共同作業者アントニオ・カルロス・ジョビン
ジョアン・ジルベルト
ホイットニー・ヒューストン
シシー・ヒューストン
公式サイト ⇒www.herbiemannmusic.com

ハービー・マン(Herbie Mann、1930年4月16日 - 2003年7月1日)は、アメリカジャズフルート奏者。

初期には、テナー・サクソフォーンおよびクラリネットバスクラリネットを含む)も演奏したが、ジャズの境界を破るフルートのテクニシャン、あるいは「ワールドミュージック」のパイオニアとして、1960年代以降のフルートを用いる最も秀でたジャズ・ミュージシャンと目される。また、プロデューサーとしても積極的で、多くの新人音楽家を発掘した。
来歴・音楽活動

ハービー・マンは、ニューヨークブルックリン区ルーマニアロシアの家系をもつユダヤ人の両親の間に生まれ、ブライトン・ビーチのリンカーン・ハイスクールに通った。キャッツキルズ・リゾートで初めてプロとして舞台に立ったのは15歳のときである。

1950年代、フィル・ウッズらのミュージシャンたちとのコンボに参加してバス・クラリネット、テナー・サックスおよびソロ・フルートを担当したが、20歳を過ぎる頃からはバップ・フルートの第一人者たるべく、この楽器一本に絞る。

彼はフュージョンあるいはワールドミュージックの初期の開拓者とされる。1959年には政府支援のアフリカ旅行に同行してアフロ・キューバン・ジャズのアルバム『フラウティスタ』を録音、1961年にはブラジルに旅しアントニオ・カルロス・ジョビンギタリストバーデン・パウエルら現地ミュージシャンを引き連れてレコーディングをするため帰国した。これらのアルバムは欧米において「ボサ・ノヴァ」を大いに流行らせ、彼はしばしばブラジルを題材とする仕事をした。

1960年代の半ばには彼のバンドにまだ若かったチック・コリアを加えて、ニューポート・ジャズ・フェスティバルでのライブは、1965年のチック・コリアをフィーチャーしたアルバム『スタンディング・オヴェイション・アット・ニューポート』に収められ、1967年のパフォーマンスは『ニュー・マン・アット・ニューポート』に収められて、それぞれ記録されるべき演奏としてリリースされた。また、1970年の終わりから1980年代初期にかけては、ニューヨークのライブハウス・ボトムラインやジャズクラブ・ヴィレッジ・ゲイトで、インドの古典弦楽器サロードの名手ヴァサント・レイ(Vasant Rai)とのデュエット演奏を行った。

1969年のヒット・アルバム『メンフィス・アンダーグラウンド』に引き続く、数多くのディスコ・スタイルのスムーズ・ジャズの録音は、純ジャズ主義者からの批判をもたらせはしたが、彼の活躍はジャズにおける関心が衰退するまで続いた。これらのレコーディングに参加したミュージシャンは、歌手シシー・ヒューストン(ホイットニー・ヒューストンの母)、ギタリストであるデュアン・オールマンラリー・コリエル、ベーシストのドナルド・ダック・ダンチャック・レイニー、そしてドラマーのアル・ジャクソンとバーナード・パーディらで、いずれもソウル・ミュージックやジャズ界でもよく知られたセッション・プレイヤーの面々である。

この頃、ハービー・マンはジャズ・ミュージシャンには珍しく、数多くのポップ・ヒットの作品保持者であった。彼は1960年代から1970年代にかけて、25枚のアルバムをビルボードポップ・チャート200に送り込んでいる[1]。また、彼の最もポピュラーなシングル「ハイジャック (Hi-Jack)」は、1975年にビルボードのダンス・チャートにおいて3週間首位の座を勝ち取り[2]、総合シングル・チャートのBillboard Hot 100でも14位のヒットとなった[1]。彼はまた、1978年のカナダ国家の映画制作部門(National Film Board of Canada)におけるアニメ作家イシュ・パテル(Ishu Patel)によるショート・フィルム『Afterlife』のための音楽を提供している。

1969年、彼自身のレーベル「エンブリオ・レコード(Embryo Records)」を設立し、本格的にプロデューサー業務に乗り出す。配給はアトランティックコティリオン・レコードを通じて行われた。エンブリオは1977年までジャズからロック指向まで様々なアルバムを制作・リリース(Embryo Records参照)してきたが、以降は立ち行かなくなり、後の1990年代に至って「ココペリ・レコード(Kokopelli Records)」が立ち上げられた。

1996年、エイズ基金「レッドホット・オーガニゼイション(RHO)」のためのボサ・ノヴァ・アルバム『Red Hot + Rio』では他の多くの音楽家たちに交じり、オルタナティヴ・ミュージック・バンドのステレオラブと一緒に「One Note Samba/Surfboard」を競演した。

最晩年は前立腺癌との長い闘いの末、2003年5月3日のニューオーリンズ・ジャズ祭への73歳での登場を最後に、その2か月後の7月3日に亡くなった。2004年には、旧友フィル・ウッズとの共演盤『ビヨンド・ブルックリン』が遺作としてリリースされた[3]
ディスコグラフィ詳細は「:en:Herbie Mann discography」を参照
リーダー作品
1950年代


『フラミンゴ』 - Flamingo (1955年、Bethlehem)

『ハービー・マン-サム・モスト・クインテット』 - The Herbie Mann-Sam Most Quintet (1955年、Bethlehem) ※with サム・モスト


『ハービー・マン・プレイズ』 - Herbie Mann Plays (1956年、Bethlehem)

『ラヴ・アンド・ザ・ウェザー』 - Love and the Weather (1956年、Bethlehem)

Mann in the Morning (1956年、Prestige)

Herbie Mann with the Wessel Ilcken Trio (1956年、Epic)

Flute Flight (1957年、Prestige) ※with ボビー・ジャスパー

Flute Souffle (1957年、Prestige) ※with ボビー・ジャスパー

Sultry Serenade (1957年、Riverside)

Salute to the Flute (1957年、Epic)

Mann Alone (1957年、Savoy)

『ヤードバード・スイート』 - Yardbird Suite (1957年、Savoy)

Great Ideas of Western Mann (1957年、Riverside)

『フルート・フラタニティ』 - Flute Fraternity (1957年、Mode Records) ※with バディ・コレット


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:28 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef