イギリスの政治家初代オックスフォード=アスキス伯
ハーバート・ヘンリー・アスキスHerbert Henry Asquith
1st Earl of Oxford and Asquith
生年月日1852年9月12日
出生地 イギリス
イングランド、ウェスト・ヨークシャー州、モーリー
初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith [?askw?θ][4], 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)は、イギリスの政治家、貴族。
ヘンリー・キャンベル=バナマンの引退後、代わって自由党党首兼首相となった(在職1908年 - 1916年)。さまざまな内政改革を行いつつ、外交では自由帝国主義者として海軍増強に力を入れ、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招いた。
子に映画監督のアンソニー・アスキス、曾孫に女優のヘレナ・ボナム=カーターがいる。 1852年生まれ。幼い頃に父を亡くし、いろいろな家を転々とする半孤児的な少年時代を送る。学業優秀だったため、奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学。 大学卒業後、弁護士となる。1886年の総選挙に自由党候補として出馬して初当選する。自由党内ではローズベリー伯爵の自由帝国主義派の派閥に属した。1889年にアイルランド国民党
概説
1892年発足の第4次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣。続くローズベリー伯爵内閣でも留任した。1895年から1905年までの自由党野党時代にはジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論を批判する運動で活躍し、後に自由党党首となりうる声望を得た。1905年に発足した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣に大蔵大臣として入閣した。
キャンベル=バナマンの政界引退で1908年に後継の首相に就任した。急進派閣僚デビッド・ロイド・ジョージやウィンストン・チャーチルの補佐を受けて、多くの内政改革を行った。1908年には70歳以上の高齢者に年金を支給する老齢年金法を制定、1910年には富裕層に重い税負担をさせる税制改正を含む「人民予算」を可決させた。1911年には貴族院の拒否権を制限し、庶民院の優越を確立した議会法を制定した。さらに同年、国民保険法を制定して、国民健康保険制度と失業保険制度を定め、福祉国家への第一歩を踏み出した。