ハーバート・ヘンリー・アスキス
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イギリス政治家初代オックスフォード=アスキス伯
ハーバート・ヘンリー・アスキスHerbert Henry Asquith
1st Earl of Oxford and Asquith

生年月日1852年9月12日
出生地 イギリス
イングランドウェスト・ヨークシャー州、モーリー(英語版)
没年月日 (1928-02-15) 1928年2月15日(75歳没)
死没地 イギリス
イングランドオックスフォードシャー州、サットン・コートニー(英語版)
出身校オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
前職弁護士
所属政党自由党
称号ガーター勲章オックスフォード=アスキス伯爵、勅選弁護士(英語版)
配偶者ヘレン・メルランド
マーゴット・テナント(英語版)
サイン
首相
在任期間1908年4月5日 - 1916年12月5日[1]
国王エドワード7世
ジョージ5世
戦争大臣
内閣アスキス内閣(兼任)
在任期間1914年3月31日 - 1914年8月6日[2]
大蔵大臣
内閣キャンベル=バナマン内閣
在任期間1905年12月10日 - 1908年4月6日[2]
内務大臣
内閣第4次グラッドストン内閣
ローズベリー伯爵内閣
在任期間1892年8月16日 - 1895年6月24日
庶民院議員
選挙区イースト・ファイフ選挙区(英語版)[3]
ペイズリー選挙区(英語版)[3]
在任期間1886年7月1日 - 1918年12月14日[3]
1920年2月12日 - 1924年10月29日[3]
その他の職歴
貴族院議員
1925年 - 1928年2月15日[3]
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初代オックスフォード=アスキス伯爵ハーバート・ヘンリー・アスキス(Herbert Henry Asquith [?askw?θ][4], 1st Earl of Oxford and Asquith, KG, PC, KC、1852年9月12日 - 1928年2月15日)は、イギリス政治家貴族

ヘンリー・キャンベル=バナマンの引退後、代わって自由党党首兼首相となった(在職1908年 - 1916年)。さまざまな内政改革を行いつつ、外交では自由帝国主義者として海軍増強に力を入れ、ドイツ帝国との建艦競争を行い、最終的には第一次世界大戦を招いた。

子に映画監督のアンソニー・アスキス、曾孫に女優のヘレナ・ボナム=カーターがいる。
概説

1852年生まれ。幼い頃に父を亡くし、いろいろな家を転々とする半孤児的な少年時代を送る。学業優秀だったため、奨学金を得てオックスフォード大学ベリオール・カレッジに入学。

大学卒業後、弁護士となる。1886年の総選挙に自由党候補として出馬して初当選する。自由党内ではローズベリー伯爵の自由帝国主義派の派閥に属した。1889年にアイルランド国民党(英語版)党首パーネルの冤罪を晴らしたことで政治家、弁護士として名をあげる。

1892年発足の第4次グラッドストン内閣に内務大臣として入閣。続くローズベリー伯爵内閣でも留任した。1895年から1905年までの自由党野党時代にはジョゼフ・チェンバレンの保護貿易論を批判する運動で活躍し、後に自由党党首となりうる声望を得た。1905年に発足した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣に大蔵大臣として入閣した。

キャンベル=バナマンの政界引退で1908年に後継の首相に就任した。急進派閣僚デビッド・ロイド・ジョージウィンストン・チャーチルの補佐を受けて、多くの内政改革を行った。1908年には70歳以上の高齢者に年金を支給する老齢年金法を制定、1910年には富裕層に重い税負担をさせる税制改正を含む「人民予算」を可決させた。1911年には貴族院の拒否権を制限し、庶民院の優越を確立した議会法を制定した。さらに同年、国民保険法を制定して、国民健康保険制度と失業保険制度を定め、福祉国家への第一歩を踏み出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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