ハーバート・フーヴァー
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ハーバート・フーヴァー
Herbert Hoover


アメリカ合衆国
第31代大統領
任期1929年3月4日1933年3月4日
副大統領チャールズ・カーティス
アメリカ合衆国
第3代商務長官
任期1921年3月5日1928年8月21日
大統領ウォレン・ハーディング
カルビン・クーリッジ

出生1874年8月10日
アメリカ合衆国
 アイオワ州ウェストブランチ
死去 (1964-10-20) 1964年10月20日(90歳没)
アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
政党共和党
出身校スタンフォード大学
配偶者ルー・ヘンリー・フーヴァー(英語版)
子女ハーバート・フーヴァー・ジュニア(英語版)
アラン・フーヴァー
署名

ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover、1874年8月10日 - 1964年10月20日)は、アメリカ合衆国政治家、鉱山技術者。第31代アメリカ合衆国大統領、第3代アメリカ合衆国商務長官を歴任した。
生涯
生い立ち

1874年8月10日にアイオワ州ウェストブランチにて、クエーカー信者の一家に誕生した。幼くして両親を亡くした後、オレゴン州ニューバーグに転居した。幼少期(1877年)

1885年夏、フーヴァーは11歳の時におばのハンナの手製のごちそうの入ったバスケットを持ち、2枚の10セント硬貨を衣服に縫い込み、ユニオン・パシフィックの列車に乗って西のオレゴン州へ向かった。アメリカ大陸の反対側で彼を待ったのは、おじで医者であり教育長のジョン・ミンソーンだった。後にフーヴァーは彼を「表面上は厳しいが、全てのクエーカー信者同様に底では親切だった」と回想した。

フーヴァーはオレゴンでの6年間で独立独行を覚えた。フーヴァー曰く「私の少年時代の希望は誰の支援もなしでいかなる場所でも自分の生計を立てることだった」。おじのオレゴン・ランド・カンパニーの使い走りとして、彼は簿記とタイピングをマスターし、夜にはビジネススクールに通った。学校教師ジェーン・グレイのおかげで、彼はチャールズ・ディケンズウォルター・スコットの小説に夢中になった。『デイヴィッド・コパフィールド』(世の中を機知で切り抜けていく孤児の話)は、生涯のお気に入りだった。
スタンフォード大学へ

1891年秋にカリフォルニア州パロアルトのスタンフォード大学に第1期生として入学する。在学中、野球チームやフットボールチームの運営、クリーニング屋や講義仲介業の経営などで注目を浴びた。

キャンパスの上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識も無い学生自治会の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の負債を返済することに成功した。

フーヴァーは地質学を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強した。ブラネル教授は彼のために夏休みの間アーカンソー州オザーク山脈で地形の地図を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイーズ)・ヘンリーとそこで出会い、1899年に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903年 - 1969年)、二男アラン(1907年 - 1993年)をもうけている。2人ともスタンフォード大学を卒業している。

1895年5月、フーヴァーに知識・職業・妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りの無い人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
卒業後

卒業後、フーヴァーはオーストラリア鉱山で鉱山技師として働き始め、その後にで鉱山の開発に従事した。1900年6月には天津租界義和団によって、1か月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。

1907年から1912年にかけてフーヴァーとルーは、1556年出版という最も古くに印刷された技術的な論文の一つであるゲオルク・アグリコラの論文を翻訳した。この翻訳はアグリコラの論文の中で、最も信頼される英語翻訳となっている。

1921年、商務長官の地位にあったフーヴァーは、ヘンリー・カボット・ロッジや他の上院共和党員の反対を退け、飢饉で苦しむソ連やドイツの人々への食糧支援を実施。評論家から、共産主義ロシアを助けたのではないかと問い合わせを受けると、「2千万の人が飢えている。彼らの政治が何であっても彼らを食べさせるべきである」と反論した。『ニューヨーク・タイムズ』は「10人の最も重要な生きているアメリカ人」にフーヴァーを選んだ。

1928年アメリカ合衆国大統領選挙では、民主党のアル・スミスに対して選挙戦を有利に展開。1928年11月7日の非公式集計において、過半数の選挙人を獲得したことが確実となり[1]大統領就任が決定づけられた。
大統領職

前年の選挙で「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、1929年3月4日に行われた就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利の日に近づいている……」と語った。しかし、その演説は彼の予想とは関係なく、ただ裏切られた。

既に陰りが見えていたアメリカ経済は10月の世界恐慌以降、未曾有の大不況に突入し、フーヴァーはこの対応に振り回されることになった。彼は、国民を鼓舞するためにも「不況はしばらくすれば元の景気に回復する」という古典派経済学の姿勢を貫くしかなく、国内においては政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。金本位制の維持に固執し、高金利政策と緊縮財政を断行した。一方で、復興金融公社の創設など、古典派経済学の政策から逸脱した施策も対処的に実施した。しかし対外的にはスムート=ホーリー法のもとで保護貿易政策をとった。このことが世界恐慌を深刻にさせた一因、とも指摘する論もある。

恐慌脱出に向けての道筋が見出せない中、フーヴァーが発表した政策として有名なものが、第一次世界大戦で英仏に融資した戦債の返済を1年間猶予する「フーヴァー・モラトリアム」である。彼の政権は、この政策を実行して耐え忍ぶことにより、その1年間の間に景気は回復するだろうと考えていた。次代の大統領フランクリン・ルーズベルトが公約を反故にしたニューディール政策で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァー政権は政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させることになってしまった。

シカゴのギャング・アル・カポネの逮捕については精力的であったものの、一方で、ボーナスアーミーと呼ばれた退役軍人の恩給支払い要求デモの鎮圧を、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーに指示したが、越権され強力な弾圧を加えてしまい、大統領の管理能力を問われた。


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