ハーバート・スペンサー
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ハーバート・スペンサー

ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer、1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、イギリス哲学者社会学者倫理学者チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を読み、そこで表現されている自然選択説適者生存(survival of the fittest)と言い換えた(『生物学の原理』(1864 ))ことで知られる。スペンサーは適者生存を生物の進化に限らず、社会学や倫理学にも応用して議論を展開した。

スペンサーの著作は多岐にわたり、倫理学、宗教学、人類学、経済学、政治理論、哲学、文学、天文学、生物学、社会学、心理学など幅広い分野に貢献する博識者として知られている。
略歴

1820年、イングランドダービーの非英国国教会(非国教徒)の家庭に生まれる。父親のウィリアム・ジョージ・スペンサー(英語版)はメソジスト派からクエーカーに改宗したことで知られ、息子ハーバートにあらゆる権威に対して対抗するような心性を伝えようとした。ジョージ・スペンサーは、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチの進歩的な教授法に基づいて設立された学校を経営し、チャールズ・ダーウィンの祖父であるエラズマス・ダーウィンが1783年に設立した科学協会であるダービー哲学協会の書記を務めた。ジョージはハーバートにエラズマス・ダーウィンのとジャン=バティスト・ラマルクの進化の概念を伝えた。

はじめは教師であった父の方針で学校教育を受けず、家庭で教育を受けたが、その後叔父トーマス・スペンサーの経営する寄宿学校でラテン語や数学、物理学などを学んだ[1]。トーマスは甥に、自由貿易と反国家主義的な政治見解を教えた。

1837年、17歳でロンドン・バーミンガム鉄道(ロンドンに走る初の都市間鉄道、1838年に公式にロンドンからバーミンガムまで開通している)の鉄道技師として働き始め、空いた時間に著作活動を行なった。

1840年頃、鉄道工事の現場を見て地質学に関心を持ちライエル『地質学原理』(1830-1833)を手に取る。そこから第2巻ラマルク主義進化思想を徹底的に批判していたところからラマルクを知る。定向進化、用不用説(よく使用されるものが発達し、そうでないものが衰退する)を学ぶ。[2]

1843年に最初の著作『政府の適正領域(Proper Sphere of Government)』を刊行。友人への手紙にて「漸進主義」gradualismとして「もし或る国民が武力によって自己を解放し、これらの道義的試練(絶対主義など)を経ずにゴールに致達するような場合には、彼らの自由は長く続くとは考えられません。」と書く。[3]

1846年、骨相学に傾倒し、頭骨を計測する装置セファログラフを設計するほど入れ込む。スペンサーは、骨相学からは心の機能と脳神経が対応することを学んだ。更には骨相学で唱えられている機能の局在は、局在する場所や仕様が違うのではないかという議論まで真剣にしている。

1840年代中盤に『ザ・ゾイスト誌(英語版)』(1843-1846)という骨相学とメスメリズムの融合を考えた雑誌に3本の論文を寄せている。『ゾイスト誌』に1844年に『驚きの器官に関する一理論』という論文を投稿している。[2]『ザ・ゾイスト誌』の創業者は元々骨相が学であるのと、「人間の精神構造を支配する法則を少なからず理解するための実践的な科学との接続と調和」をテーマとして考えていた雑誌。

1848年から1853年のあいだ経済誌『エコノミスト』誌の副編集長を務める[4]

1851年、副編集長を務める間に、最初の本『社会静学』(『社会平権論』Social Statics)をジョン・チャップマンによって出版した。『社会静学』には、人間性が社会生活の要求に応えるようになれば、必然的に国家は衰退するだろうと予見している。

日本では1877年尾崎行雄抄訳『権利提綱』、1881年松島剛訳『社会平権論』がある。

この本を、コント(Comete,A)の「社会静学」(Statique sociale)や統計学(statistics)と区別する意味でDemostaticsという表題にしたかったが、出版社やその他の人々の反対で、やむなくSocial Staticsとしたが、自分はこの本を「社会的、政治的な道徳の体系」Asystem of Social and political moralityとして提起したと言っている。

第16章は婦人の権利The Rights of Women。

この本の、この章では人類の幸福のための基本的な条件である「平等な自由の原理」law of equal freedomの一環としての男女の平等を帰納的であるより、むしろ演繹的に論証しようと試みているといって差し支えない。1878?1879年フェノロサ講義「無関(レーセフ)論」ではこの本を教科書としている。[5]

このころ『ウェストミニスター・レビュー』を発行していたジョン・チャップマンのサロンに招待されたスペンサーは、ジョン・スチュアート・ミル、ハリエット・マーティノー(英語版)、ジョージ・ヘンリー・ルイス(英語版)、メアリー・アン・エヴァンス(ジョージ・エリオット)など、ロンドンの急進的な思想家やジャーナリストと知遇を得ることとなった。またスペンサーはトーマス・ヘンリー・ハクスレーとも親交を深めることとなる。なかでもエヴァンスとルイスとの縁によって、ミルの『論理学の体系』(J.S.ミルの『論理学体系』をスペンサーはこの頃くらいから本格的に読んでいる。[2])、オーギュスト・コント実証主義に出会ったことは、スペンサーの生涯のライフワークを決めたといえるだろう。

1853年に叔父の遺産を相続すると副編集長の職を辞し、在野の研究者として著述に専念することとなった。

1853年『干渉論』Over-Legislation、「余は立法干渉の当否に疑問を抱く者なり」[3]

1854年『科学の起源』The Genesis of Science、この著作は、1852年コント著『実証哲学講義』の攻撃を兼ねたもの。

「科学(的知識)の業績と日常的非方法的思考の業績は、せいぜい表面的な区別にすぎないことを知る必要がある。

 家庭や田畑での最も平凡な行動さえ、事実が総合され、推理が行われ、結果が予想されていることを前提にしており、予想された現象と現実の現象との間には完全な一致がある。そしてこれ以上のことは、特に厳密とされる科学の最高の業績についても期待できない。」[3]

1855年7月『心理学原理』初版、こちらにおいては、精神の現象はすべて進化論的観点から説明している。[6]

 後に、ウェリアム・ジェームズは1876年にハーバード大学生理学助教授になり「生理学的心理学」を開講した際、(この初版か改訂版化は分からないが)『心理学原理』を用いた。[7]

1857年『進歩について?その法則と原因』Progress its Law and Course、進化論の同質性から多様性

●「個々の有機体が進化の過程で示す進歩という点では、この問題に対する回答はドイツ人たちによって与えられた。 ゲーテらの研究は、種子から木、卵から動物への発展を通じて行われる一連の変化が、構造の同質性から構造の異質性への発達であるという心理を証明した。」

●「オーエン教授によれば、生物の各グループに属する古い例は、新しい例に比べて原型の一般性を離れる範囲が狭く―グループ全体に共通を基本的形態との隔たりが小さい。」

●「私の最も尊敬する人(トーマス・ヘンリー・ハスクリー)によれば、現在得られる証拠はいずれにしても判断の正しさを証明するものではない」

●「ドイツの生理学者たちによって有機体発展の法則として発見されたものが、あらゆる発展の法則であることを明確に示し得たと信ずる。」

●「社会に加えられる一つ一つの力から多くの結果が生じ、この結果の増大によって異質性が増加する。そして力が作用する地域の異質性が大きいほど結果の数と種類も増す。」比較として未開人社会・同質的社会とイングランドを出している。

●「ラファエロ前派(1848-1853頃)のような絵画の新しい流派が他の流派に及ぼす影響、あらゆる種類の絵画が写真術から得ているヒント、ラスキン氏の理論のような新しい批評理論の複雑な成果なども、結果の増加を示すもの。」[3]

 『進歩、その法則』はWestminster Reviewの4月号に掲載されているようで、同じ年にNational Reviewでは『生理学の究極的原理』を掲載している。[6]

1858年に、「総合哲学体系」と称した一連の研究計画を発表した。これは進化の原理が生物学だけでなく、心理学や社会学、道徳にまで適用可能だと実証することも目的としたものでした。当初の予定では20年かかるとおもわれた出版計画は最終的に40年かけて完成することとなった。

1859年、ダーウィンの『種の起源』出版。スペンサーはそれ以前から進化に関する構想を打ち明けていた。

1859年『知識の価値(教育論第一章)』、ハーンの1891年のハワード教授との議論で使われている。

[芸術と科学の関係]

●「絵画について言えば、たとえ合理的でなく経験的であっても、絵画的知識の必要はさらに顕著である。絵画の進歩とは、自然的効果を作り出す方法の知識の増大を意味する。このことは、教科書や講義を思い出すか、ラスキンの批評を考えるか、ラファエロ前派の活動を調べればわかる。科学の助けがなければ、いかに真面目に観察しても誤りは免かれ得ない。」

●「J・ルイース氏(John Fredrick Lewis1804-1876)は慎重ながかであるけれど、科学を知らないので、格子窓の影を反対側の壁にくっきりと投じている。もし彼が半影という現象をしっていれば、そのようには行わなかったであろう。」

●「ロセッティ氏も科学に無知なため、特定の光線の下で髪の表面に現れる特殊な虹色[その虹色というのは、光が髪の間を通る際の回折によって生ずる]を見て、現れるはずのない表面と場所にそれを描く誤りを犯している。」

●「シナの絵がグロテスクなのは、外見の法則を全く顧みず、不合理な直線遠近法に頼って、空間遠近法を用いぬことによる。」

●「天才が科学と結婚した時にのみ最高の結果は生み出される。」

●「科学的研究に従事する人間は、詩情を他の誰よりも強く生き生きと感ずる。」

●「ビュー・ミラー(Hugh Miller 1802-1856)の地質学書を読めば、科学とは死を殺すものではなく詩を生かすものであることがわかる。またゲーテの生涯を考えてみても、同じ活動の中に詩人と科学者が共存していることが認められるに違いない。」

 他にも1858年George Henry Lwes著の『海の研究』Seaside Studiesもその例に挙げている。

[科学の教育への影響]

●「訓練手段としての科学が語学を遥かに凌駕するのは、科学が判断力を養うからである。王立研究所で行われた精神教育に関する講演の中でファラデー教授(Micheal Faraday1791-1867)が巧みに述べているように、最もありふれた知的欠陥というのは判断力の欠如なのである。


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