ハート・クレイン
[Wikipedia|▼Menu]

ハート・クレイン
Hart Crane
生誕 (1899-07-21)
1899年7月21日
死没 (1932-04-27) 1932年4月27日(32歳没)
テンプレートを表示

ハロルド・ハート・クレイン(Hart Crane、1899年7月21日 - 1932年4月27日)は、アメリカ合衆国詩人T・S・エリオットの詩に触発・挑発され、難解で極めて様式化された野心的なモダニズムの詩を著した。最も野心的な作品である「橋」で、クレインは「荒地」の調子に倣った叙事詩を書こうとし、エリオットの作品に見受けられるよりも現代の都会の文化をもっと楽観的に捉えて表現した。32歳で自殺してから、クレインは劇作家、詩人、文芸批評家など(ロバート・ローウェルデレック・ウォルコットテネシー・ウィリアムズハロルド・ブルームなど)から賞賛され、この世代における最も影響力ある詩人と見なされている[1][2][3]
生涯と作品

ハート・クレインはオハイオ州ギャレッツヴィルで生まれた。父のクラレンスは成功したオハイオ州の実業家で、ライフ・セイヴァーズ・キャンディを発明して特許をとっていたが、ブランドが有名になる前に2900ドルでそれを売ってしまっていた[4]。クラレンスは他のキャンディを作り、チョコバーとキャンディのビジネスで富を蓄えた。クレインの母と父はいつも喧嘩ばかりしており、1917年の四月のはじめに離婚した[5]。ハートは高校を三年生の時にやめてニューヨークに向かった。両親には後でコロンビア大学に行くと約束していた。両親は離婚手続きの最中であったが、動揺していた。クレインはコピーライター関係の様々な仕事につき、マンハッタンの友人のアパートを転々としていた[4]。1917年から1924年の間はニューヨークとクリーヴランドを行き来し、広告のコピーライター及び父の会社の勤め人として働いた。クレインの手紙によると、ニューヨークでもっとも落ち着いた気分になることができたようであり、詩の多くはそこでできたものである。
業績

1920年代初めの間、クレインの詩は小規模だが定評のある文芸誌で出版され、前衛的な文人の間で敬意を払われるようになった。1926年に出た最初の詩集『白い建物』(White Buildings)によってその評価は確定・強化された。『白い建物』にはクレインの最良の詩が多く入っており、「フォースタスとヘレンの結婚に」For the Marriage of Faustus and Helen,や「旅路」Voyagesなど、エロティックで力強い詩句が見受けられる。こうした詩はクレインがデンマークの海運商人エミール・オッフェルと恋愛していた時に書かれたものであり、「フォースタスとヘレン」はモダニティと絶望を超えたものを調和させるために大きな芸術的葛藤からくるものであった。クレインはT・S・エリオットをこの種の絶望と同一視し、「荒地」の偉大さは認めつつも、この詩は「あまりにもひどく死にたえた感じである」とも語っていた[6]。1926年と27年のそれぞれ約1ヶ月の時期にクレインは詩集『橋』にふくまれる大半の詩をしあげる[7]

クレインは1928年にニューヨークに戻り、友人と住みながらコピーライターとして臨時の仕事をしたり、失業手当や友人、父の好意に頼って暮らしたりしていた。一時はブルックリンのウィロー通り77番地に住んでいた[8]。そののち、恋人のオッフェルがブルックリン・ハイツにあるコロンビア・ハイツ110番地にある自分の父親の家に住むよう誘ってくれたので、ウィロー通りを引き払って引っ越した。クレインはその家の景色が大変気に入って喜んでおり、母と祖母にその様子を手紙で書き送ったりしている。

クレインのアメリカを統合化して表現したいという野心は1930年の「橋」(The Bridge )に表れている。これはT・S・エリオットの「荒地」に対する明るい反論を意図したものである。ブルックリン橋は詩の中心的象徴であるとともに詩の出発点でもある[9]。1920年代の末、「橋」を完成させている間に、常に問題になっていたクレインの飲酒癖が目立って悪化した[10]

芸術専門の出版社ブラック・サン・プレスを所有していたハリー・クロスビーとその妻カレス・クロスビーは、1929年の2月、パリでクレインに自分たちの田舎の隠棲所でエルムノンヴィルにあるル・ムーラン・ドゥ・ソレイユを使ってくれと申し出た。ふたりはクレインが「橋」の完成に集中できる時間をとってほしいと考えていた。クレインはその地所で数週間過ごし、そこで叙事詩「橋」の鍵となる部分であるCape Hatterasのセクションのおおまかな草稿を書いた[11]。クレインは同年6月末に南仏からパリに戻った。ハリーは日記に、「ハート・Cがマルセイユから戻ってきたが、そこでハートは30人の船員と寝てカティ・サークをまた飲み始めた」と記している。クレインはカフェ・セレクトで酔っ払って、自分のつけをめぐってウェイターと喧嘩をした。パリ警察が呼ばれた時、クレインは警察と喧嘩をして殴られた。クレインは逮捕・投獄され、800フランの罰金を払うことになった[4]。ラ・サンテの監獄で6日すごした後、ハリー・クロスビーがクレインの罰金を払い、アメリカ合衆国へ帰る旅費を工面してくれた[11] 。アメリカでクレインは「橋」を完成させた[4]。「橋」の評判は悪く、クレインは失敗したと考えてひどく精神的に落ち込んだ[9]

クレインは1931年から32年にかけてグッゲンハイム・フェローシップでメキシコを訪れたが、交互に躁鬱の発作に襲われるため酒を飲み続けていた。友人であるマルカム・カウリー の妻ペギー・カウリーが離婚に合意した時、ペギーはクレインと一緒になった。知られている限りでは、ペギーはクレインの唯一のヘテロセクシャルのパートナーであった[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:34 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef