ハーシェル・ゴードン・ルイス
Herschell Gordon Lewis
2010年、フロリダ・スーパーコンにて
別名義Lewis H. Gordon、
Mark Hansen、
H.G. Lewis、
Herschell G. Lewis、
Georges Parades、
George Parades、
Armand Parys、
Armand Pays、
Shelden Seymour、
Sheldon S. Seymour、
Sheldon Seymour、
Seymour Sheldon、
R.L. Smith、
Gordon Weisenborn
生年月日 (1926-06-15) 1926年6月15日
没年月日 (2016-09-26) 2016年9月26日(90歳没)
出生地 アメリカ合衆国・
ペンシルベニア州ピッツバーグ
職業映画監督
ジャンルスプラッター、セクスプロイテーション
配偶者ジョーン・ルイス(1948 - 62年)離婚
アリソン・ルイーズ・ドーン(1962 - 71年)離婚
イヴォンヌ・ギルバート(1975 - 83年)離婚
公式サイト ⇒herschellgordonlewis.com [リンク切れ]
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ハーシェル・ゴードン・ルイス(Herschell Gordon Lewis、ペンシルベニア州ピッツバーグ出身、1926年6月15日 - 2016年9月26日)は、アメリカ合衆国の映画監督。 ホラー映画のサブジャンルであるスプラッター映画で最も有名である。「ゴア(Gore - 流血・血糊)のゴッドファーザー」と呼ばれるが、彼のエクスプロイテーション映画作品には、非行少年映画、田舎が主題のコメディ、ヌーディー・キューティー、2本の子供向け映画さえ含まれる。 ルイスは当初、映画『Prime Time 』(1960年) で製作者としてこの世界に飛び込んだ。これは1910年代後期以来、シカゴで製作された最初の公開作品だった。彼はそれ以来、自分の関わった映画のほぼ全作品の監督を務めている。 ルイスと伝説的なエクスプロイテーション映画製作者、デイヴィッド・F・フリードマンとの一連の共同製作映画の1作目は、ヒュー・ヘフナーとPLAYBOYの始まりを描いた『Living Venus 』(1961年) である。2人は1960年代初期にエロティックな映画を製作し続けた。これらの映画は各々の経歴を活かした綿密な打ち合わせの下に企画され、専ら利益を上げる意図のみで製作された。これらのヌード映画の代表的な作品が、スクリューボール・コメディ『B-O-I-N-G! 』(1963年) と『Adventures of Lucky Pierre 』(1961年)で、わずか7,500ドルの制作費で、コンビに興行的な大成功をもたらした。当時はまだ映画での性的描写の規制が厳しく、ルイスとフリードマンの初期の仕事の大半は、「最初の(そして今のところ唯一の)ヌーディストのミュージカル」が謳い文句であった『Goldilocks and The Three Bares ヌード市場が衰退し始めたのに伴い、ルイスとフリードマンは1963年に先駆的映画『血の祝祭日 (Blood Feast
人物
来歴
初期
スプラッター
ルイスは『カラー・ミー・ブラッド・レッド』までの3本で、いったんフリードマンとのコンビを解消したが、スプラッター映画の製作は1970年代まで続けた。ルイスの次のスプラッター映画は、ほぼ2時間という比較的長い上映時間のために、しばしば「ゴア版の『風と共に去りぬ』」と呼ばれる、1967年の『Taste of Blood 』まで待たれた。続く『悪魔のかつら屋 (Gruesome Twosome) 』(1967年) は更にこの路線を過激に押し進めた作品となり、それは犠牲者の1人の頭皮を電動カービングナイフで剥ぐ場面が象徴している。ルイスの第3期スプラッターは、ジャンルをさらに狂暴で衝撃的な領域に押し進めた。『血の魔術師 (The Wizard of Gore) 』(1970年) には、お定まりの情け容赦ない手口で協力者の手足を切断する、ステージ・マジシャンが登場する。1973年までにルイスのスプラッターへのアプローチは限界に達し、それ自体を風刺し始めるようになった。これが『ゴア・ゴア・ガールズ (Gore-Gore Girls) 』(トップレス・クラブの店主役でのヘニー・ヤングマン (Henny Youngman) の出演を呼び物とした) 以降、彼が映画から半ば身を引いた理由である。彼はコピーライターとダイレクトマーケティング(これに関しては1980年代に著書を数冊出している)の仕事をするため、映画界を去る決意をする。ルイスはオリジナルビデオ『ブラッド・フィースト 血の祝祭日2 (Blood Feast 2: All U Can Eat) 』の監督として、2002年に映画界に復帰した。 60年代の終わり頃、ルイスはかなり規制が緩やかになったセクスプロイテーションの世界に戻った。それらの映画は世に知られることもなく、直ぐに忘れ去られた。ルイスの1972年の映画『Black Love 』は出演者全てがアフリカ系アメリカ人というエロティック映画であったが、完全に紛失した。また、やはり紛失したと伝えられる2本のヌード映画『Ecstasies of Women 』(1969年) と『Linda and Abilene 』(1969年) は、マンソン・ファミリーが居住する、ほんの数ヵ月前のスパーン牧場で撮影されたことで有名なレズビアン・ウェスタンである。『Year Of The Yahoo! 』(1972年) も紛失したと考えられていたが、現在完全なプリントが密造酒を扱った流血映画『This Stuff'll Kill Ya! 』(1971年) とカップリングでDVD化されている。 悪名高いスプラッター映画以外にも、ルイスは60年代にあらゆるジャンルのエクスプロイテーション映画を撮っている。彼が開拓した、より禁忌なテーマの映画には、少年犯罪を扱った『Just For The Hell Of It 』(1968年)、スワッピングを描いた『Suburban Roulette 』(1968年)、音楽業界の腐敗を取り上げた『Blast-Off Girls 低予算にもかかわらず、ルイスは常に臨機応変な仕事をした。彼は未完成映画の権利を買い取り、自ら完成させ『モンスター・ア・ゴーゴー (Monster A Go-Go 2006年、ルイスはPolly Staffleの栄誉殿堂入りを果たした[2]。また2004年のホラー・コメディ映画『Chainsaw Sally 』にカメオ出演し[3]、ジョニー・マーティン・ウォルターズの長編劇画「American Carnevil」の1エピソードに登場した。 『血の魔術師』は、2007年の映画『JUNO/ジュノ』でジェイソン・ベイトマンが演じたマークのお気に入りの映画と設定されている。 2016年9月26日に逝去。87歳没。広報担当によると就寝中に息を引き取ったとみられており、死因は公表されていない[4]。 年邦題
セクスプロイテーション
その他のジャンル
ビジネスセンス
近年の活動
主な作品
原題役名備考
1961The Adventures of Lucky PierreLewis H. Gordon名義
1962Living Venus
Daughter of the SunLewis H. Gordon名義
1963Bell, Bare and BeautifulLewis H. Gordon名義
Boin-n-g!Lewis H. Gordon名義
血の祝祭日
Blood Feastラジオアナウンサー
Goldilocks and the Three BaresLewis H. Gordon名義
スカム・オブ・ジ・アース
Scum of the Earth!ナレーターLewis H. Gordon名義
19642000人の狂人
Two Thousand Maniacs!sings the title song
Moonshine Mountain
1965Sin, Suffer and Repentdocumentary/informercial; lost film
モンスター・ア・ゴーゴー
Monster a Go-Goラジオアナウンサーノンクレジット 兼 監督
カラー・ミー・ブラッド・レッド
Color Me Blood Red
1966Jimmy, the Boy Wonderナレーター
1967The Magic Land of Mother Goosefilmed stage play