ハンモックナンバー
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ハンモックナンバーとは、大日本帝国海軍における 『海軍兵学校(以下「兵学校」)の卒業席次[1]』、または 『兵学校同期生間の先任順位[2][3]』 の通称。本記事では後者の『兵学校同期生間の先任順位』の意味で用いる。

本記事では「兵学校同期生間の先任順位」及び「帝国海軍兵科将校の人事制度」について述べる。

ハンモックナンバーは、兵学校の卒業席次やその後の勤務成績によって決められた。全現役海軍士官の先任順位は、毎年作成される『現役海軍士官名簿』[注釈 1]で海軍部内や陸軍に公示された[4][5]。同時に同階級に任じられ、同じ軍艦などで勤務する兵学校同期生の間にも、先任・後任の区別は厳然として存在し、軍令承行令による指揮系統の序列はもちろん、式典での整列の際などでもハンモックナンバーの順に並んだ[6]
語源

兵学校においては、生徒に常に同期生間の席次を意識させ、席次を競わせる方針が徹底しており、自習室の机の順番・寝室のベッドの順番に至るまで、全てが席次の順であった[7]。この席次を「ハンモックナンバー」と呼んだ[7][注釈 2]
海軍と陸軍の違い

帝国海軍では、帝国陸軍陸軍大学校(陸大)卒業履歴ほどには海軍大学校(海大)甲種学生卒業の履歴を重視しなかったため、兵科将校の進級と補職には兵学校の卒業席次が大きく影響した[1]

井上成美は中将で海軍兵学校長を務めていた時に、兵学校のある期について、兵学校卒業席次と最終到達階級との関連を数学的に分析している[9]
兵学校卒業席次と最終官等の上下との相関係数は「+0.506」となった。

兵学校を卒業後、現役で勤務する年数を平均25年とすると、兵学校3年の成果がそれに匹敵する。

帝国陸軍では、現役兵科将校が陸大を卒業すると、それまでの実績に基づく序列にかかわらず、陸士同期の最上位に置かれた[10]
兵科将校の人事制度

兵科将校の任官や進級は、少尉候補生[注釈 3]・少尉・中尉・大尉については、病気その他のよほどの事情がない限りクラスメート全員が同時であった[12]。少佐への進級からハンモックナンバーによる差がついた[12]。少佐・中佐・大佐への進級に際しては、兵学校の各クラスをハンモックナンバーの順に数グループに分け、後のクラスの選抜者を前のクラスの中に割り込ませる「抜擢」制度をとった[1]。これにより、兵学校の前後のクラスをまたいで先任順位が変化した。クラスヘッド(兵学校各クラスの最先任者)が重視され、下のクラスのクラスヘッドが上のクラスのクラスヘッドを超えて昇進することはなかった[1]

中佐から大佐への進級の際には、1クラスがハンモックナンバーの順に5グループに分れた[13]太平洋戦争大東亜戦争)が始まるまで、海軍士官の進級は1年に1回、海軍の年度切替の前後の11月中旬から12月上旬にかけて発令されたので(大将への親任[注釈 4]は1年に1度、4月前後に発令[16])、現役に残っているクラスメートに4年の差がついた[17]

海軍では大佐から下士官までについて「考課表」を上司に毎年作成させた[4]。大佐から少将への進級の際には、海軍省人事局が8年分の「考課表」を検討して昇進候補の順序をつけた[4]

大佐から少将への進級については、同クラスの5グループのうち、明治の終わり頃に兵学校を卒業した某クラスでは、一次抜擢者(クラスヘッドを含む)、二次抜擢者はほぼ全員が進級したが、三次抜擢者は7割程度、四次抜擢者・五次抜擢者は1割未満であった[13]
先任順位の決定と変化

ハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)は、兵学校の卒業席次を基本としたが、卒業後の勤務成績などにより、進級の際に上下した(同一階級にある間は、先任順位は変更されなかった)[18]1942年(昭和17年)11月に海軍省人事局長に就任した中沢佑は、「人事局長の回顧」と題するメモを残しており、下記の趣旨が記されている[19]。進級には考課表のほか、学歴およびその成績、勤務の成績、健康、その他各般の事項を評価して序列を更改する。 ? 中沢佑のメモの内容を、吉田俊雄が要約、[19]ただし各クラスのクラスヘッドたるものは、やむを得ざる事情ある場合のほか変更しない。 ? 中沢佑のメモの内容を、吉田俊雄が要約、[19]
兵学校卒業後に、ハンモックナンバーが上下した事例
兵26期

1898年明治31年)に兵学校を卒業した兵26期(兵学校卒業時59名[20])は、卒業時は2番が野村吉三郎(海軍大将)、3番が小林躋造(海軍大将)であった[20]。しかし、少尉候補生の時の遠洋航海の成績によって、ハンモックナンバーが逆転した[21]。1933年(昭和8年)3月[22][23]、小林と野村は同時に海軍大将に親任されたが、その際は小林が先任であった[21][24][注釈 5]
兵37期

※ 本節の出典は、特記ない限り、井上成美伝記刊行会編著 『井上成美』 井上成美伝記刊行会、1982年、49-50頁。

兵37期(兵学校卒業時179名)は、帝国海軍の歴史を通じて唯一、同期生が揃って少尉任官しなかったクラスである。兵学校卒業時[注釈 6]に次席(2位)[26]であった井上成美を最先任者とする兵37期137名が1910年(明治43年)12月15日に少尉任官し、兵37期の残る約1/4は約3か月遅れの1911年(明治44年)2月27日に少尉任官した。中尉への進級(1912年〈大正元年〉12月1日)では、同期生が揃って進級する通常の形に戻った。

同期生が揃って少尉任官しないという異例の措置は、当時「国家予算の都合により」と説明された。後年になって、兵37期が乗組んだ練習艦隊の司令官だった伊地知彦次郎少将が 斎藤実海軍大臣に宛てた意見書の存在が判明した。その意見書には「37期の候補生の後半(席次下位者)は、練習航海中の勤務・成績共に不良。彼らの反省を促すため、37期候補生の後半の任官を半年遅らすべし」という旨が書かれていた。

兵学校卒業時に首席(1位)[26]であった小林萬一郎(1922年〈大正11年〉、少佐の時に病没[27])は、病気のために「明治44年2月少尉任官組」に入ってハンモックナンバーが大幅に下がり、代わって井上成美が兵37期のクラスヘッドとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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