ハンマーム(アラビア語: ?????, hammām)は、トルコやアゼルバイジャン、アラブ諸国・イランなどの中東全域、アフガニスタン、中央アジア諸国、東アジア諸国に広く見られる伝統的な公衆浴場のことである。語源は「温める」「熱する」を意味するアラビア語の動詞「ハンマ」に由来する[1]。トルコ語では「ハマム (もしくはハマーム、hamam)」という。
美的な外観と排水・熱効率が計算された内部の構造は建築学の視点から高く評価されている[2]。 ハンマームは保温などを目的として半地下に建てられ、採光・換気のための窓は設けられていない[3]。乾燥帯に位置する浴場で使用される水は、ファラジ・カナートなどの給水路や井戸水から供給されている[4]。浴場を温めるかまどの燃料は木材のほか、乾燥させた人畜の糞が使用される[4]。かまどの火は料理の火種にも使われ、灰は肥料やセメント・モルタルの原料として再利用される[5]。 ハンマームの基本的な構造は、入り口に番台があり、内部に脱衣所と浴室がある。客は貴重品をハンマームの親方に預けて脱いだ衣服をまとめ、腰布を付けて入浴用のサンダルに履き替え、浴室に向かう。閉店前に必ず清掃を行う、ハンマーム内の水盤で洗濯を行ってはならないといった衛生面に関して厳しい規則があり、入浴のマナーとして腰布を纏うことが義務付けられている[6]。しかし、これらの規則やマナーが必ず守られていたとは限らなかった[6]。時代に関係なく庶民の女性は何も纏わずに入浴するのが通例となっている[7]。 浴室はふつう蒸し風呂で、浴槽からのぼった蒸気で汗を出し、あかすり師(日本でいう「三助」に相当する)によるあかすりやマッサージ、剃毛のサービスを受ける。アッバース朝時代の記録には、シロップとレモン汁を煮詰めて作った脱毛剤が使われていたことが記録されている[6]。中世には散髪、髭剃り、瀉血といった床屋の仕事も行うあかすり師が存在していた[8]。あかすり師は、男性客に対しては男性、女性客に対しては女性があてられる[9]。ハンマームで行われるマッサージは手荒ではあるが、快適だと言われる[2]。洗面台で体を流し、入浴を終えた客は脱衣所で一服し、親方に入浴料を、あかすり師にはチップを支払って外に出る。「夜のハンマームにはジン(精霊、妖怪、魔人)が出没する」という俗信があり、営業時間を朝から日没の間に限る浴場も存在する[6]。 脱衣所で体を休める客は近くの店から取り寄せたコーヒーや茶、水タバコなどを味わい、あるいは果物を食べたり、他の客との会話を楽しんだ。ハンマームはコーヒーハウスのように長時間くつろぎながら楽しむ交際、娯楽の場として庶民に愛されてきた。現代のアラブ世界の小説・映画にも、ハンマームを舞台とした場面が登場する。
概要
歴史
ローマの浴場文化の継承8世紀初頭に建造されたクサイル・アムラ
イスラム世界の公衆浴場の建設は、正統カリフ時代の征服運動と並行して行われたとされる[10]。
中東・イスラーム世界は、かつてのローマ帝国の東南部を征服した際に、ローマ人の浴場文化を引き継ぎ発展させたと考えられている[9][11]。イスラーム社会で最初期の浴場として知られるのは、8世紀頃に作られたウマイヤ朝時代のものに遡る[11]。預言者ムハンマドは浴場を利用しなかったようであるが、4代目カリフ・アリーは浴場で身体を洗っていたと伝えられている[11]。ハディースは浴場に対して否定的な立場を取っていると考えられているが、常に心とともに身体を清潔に保つことを重んじるイスラムの教えに浴場の目的が合致するために、公衆浴場が一般に急速に普及していった側面もある[11]。
また、ハンマームはローマ世界から、浴場に壁画を飾る伝統も受け継いだ。偶像崇拝を禁じるイスラームの教義からイスラーム法学者は浴場の壁画に否定的な見解を示し、イスラーム国家の中にはウマイヤ朝のウマル2世のように壁画の破壊を命じた君主もいた。しかし、ハンマームに壁画を飾る習慣は後の時代まで残り、良質な浴場を構成する条件の1つに美しい壁画を数える意見もある。[12] イスラーム世界の都市では、ハンマームはモスク、神学校(マドラサ)に次いで重要なものだと考えられている[2]。かつては各街区に必ずモスクや市場(スーク、バザール)とともにハンマームが存在し、多くのハンマームがワクフ(寄進財産)として維持建設されてきた[9]。ハンマームの数の推移はその都市の盛衰を反映し、都市人口と発展の度合いを推定する根拠ともなる[13]。それらの公衆浴場とは別に、国家の君主・有力者は宮殿や自宅に私的な浴場・浴室を建設した。 トルコのハマムにはイスラームの習慣に合わされたビザンティン建築の技術が導入され、建築技術は早期に発達した[14]。17世紀半ばのイスタンブールには14,838のハマムが存在し、うち302が公衆浴場、残りの14,536が宮廷と富裕層が所有する浴場だった[15]。 イスラム式の浴場は中東以外にインド、マグリブ、アンダルシア地方にも建設され、その址が残る。マリーン朝、ナスル朝時代にマグリブに建設されたハンマームの遺構は現代に残り、エジプトのアイユーブ朝が建設したハンマームとの共通点も指摘される[3]。デリー、ハイデラバード、ボーパールでは、16世紀初頭にムガル帝国によって建設されたハンマームが現在も営業を続けている[16][17][18][19]。 20世紀以降に都市のインフラストラクチャーが整備されるとともに、ハンマームは数を減らしていった[2]。中東でも個人宅へ浴室が普及したために多くのハンマームが廃れ、カイロやダマスカスのような大都市で営業を続けているものがまばらに見られるほどでしかない[9]。それでも、都会での庶民の社交の場として活用されているハンマームも存在する[11]。
ハンマームの普及
近代以降