ハンボルト郡_(カリフォルニア州)
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カリフォルニア州ハンボルト郡
郡のカリフォルニア州内の位置
州のアメリカ合衆国内の位置
設立1853年5月12日[1]
郡庁所在地ユーレカ
面積
 - 総面積
 - 陸
 - 水
10,495 km2 (4,052 mi2)
9,251 km2 (3,572 mi2)
1,243 km2 (480 mi2), 11.84
人口
 - (2020年)
 - 密度
136,463人

ウェブサイト ⇒www.co.humboldt.ca.us

ハンボルト郡(ハンボルトぐん、: Humboldt County)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州の郡である。サンフランシスコから北に300kmの北部海岸に位置する。人口は13万6463人(2020年)[2]。郡庁はユーレカに置かれている。他の主要都市はカリフォルニア州立大学ハンボルト校のあるアーケータ。郡内の都市や町は華美なビクトリア様式建築の豊富な例があることで知られている。

ハンボルト郡の地域は太平洋岸に沿った北カリフォルニアの岩の多い海岸山脈に、森、山および田園部が密にある。公有私有合わせた150万エーカー (6000 km2) 近い森林があり、カリフォルニア全州の林業生産高の20%を生産している[3]。残っている海岸レッドウッド(セコイア)原生林の40%が郡内にあり[4]、その大半は保護されるか、連邦、州および地方の多くの森林や公園として厳格に保存され、総面積は68万エーカー (2720 km2) に及んでいる[5]。カリフォルニア州では2番目に大きな自然の湾であるハンボルト湾に隣接している[6]
歴史

現在ハンボルト郡と呼ばれる地域の最初の住人はワイヨット族、ユーロック族、フーパ族、カルーク族、チルラ族、ウィルクート族などのインディアンや、マットレ族とノンガトル族を含む南部アサバスカン・インディアンだった[7]。1565年にアンドレス・デ・ウルダネータメンドシーノ岬を訪れ、その後海岸を南に降ってアカプルコに達した。1565年からはスペインの貿易業者がマニラ・ガレオン船でフィリピンからの帰途、偶然カリフォルニアを訪れることがあった。ハンボルト郡は1853年にトリニティ郡の一部から創設された。ヨーロッパ人が初めてこの地を訪れたという記録は1775年にスペイン人が上陸したときのことだった[7]

ハンボルト郡の名前はハンボルト湾から得られたものであり、その湾の名前はドイツ人の有名な博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルトから来たものだった。先住民以外で最初にハンボルト湾に入ったという記録は、ロシア・アメリカ会社が雇ったシトカからのラッコ狩り隊が1806年に訪れたものだった[7]。この狩猟隊にはアメリカ人のジョナサン・ウィンシップ船長とアレウト族狩人数人が含まれていた[7][8]。その後にこの湾を訪れたヨーロッパ人といえば、1849年になってからのジョサイア・グレッグの1隊だった[8]。1850年、ダグラス・オッティンガーとハンス・ブーネがこの湾に入り、偉大な博物学者で世界の探検家アレクサンドル・フォン・フンボルト男爵に因んでハンボルト湾と名付けた。

ハンボルト湾の周辺地域は当時、ワイヨット族インディアンが住んでいるだけだった。ワイヨット族では最大級の集落、トロウォットがハンボルト湾に浮かぶグンター島(別名インディアン島あるいはブラッディ島)にあった。西暦900年頃に設立されたこの集落には、広さ6エーカー (24,000 m2)、深さ14フィート (4 m) の貝塚がある。ここで1860年2月26日にワイヨット族の虐殺が起こった。この事件は当時ユニオン、現在のアーケータに住んでいたブレット・ハートが記録していた。その夜ワイヨット族の男女、子供合わせて60人ないし200人が殺害された。1998年、音楽家フランク・ブラックが「ハンボルト郡の虐殺」と題する歌を書き、録音した。トロウォットは現在、グンター島第67遺跡と名付けられた考古学遺跡となっており、アメリカ合衆国国定歴史史跡にも指定されている[8]

郡内にあるカリフォルニア州の歴史史跡としては、トリニダード・ヘッド、ハンボルト砦、オールドアロウツリー。センタービル・ビーチクロス、キャンプ・カーティス、トリニダードの町、ユーレカ市、セコイアパーク動物園、ペトロリアにある州内初の油井、ジャコビー・ビル、トリニダードのツライにある昔のインディアン集落、アーケータ・マッド川鉄道会社、ハンボルト港歴史地区、およびファーンデールの町がある[8]

1885年2月5日と6日、敵対する中国人ギャング間の銃撃戦で12歳の少年が負傷し、ユーレカ市政委員で56歳のデイヴィッド・ケンドールが死亡した後、中国人の男性300人と女性20人全員がユーレカ市から追放された。銃撃戦の後、ユーレカ市の怒れる市民600人が集結し、中国人にもはやユーレカには住んで欲しくないこと、および翌日の午後3時を過ぎても町に留まっておれば絞首刑にすることを伝えた。中国人は2隻の蒸気船に乗せられ、サンフランシスコに向かった。この追放劇で死人は出なかった。1906年にもイール川沿いの缶詰工場で中国人の排斥事件が起こった。このときは地元の製材業者が中国人の居ることに異を唱え、缶詰工場の23人の中国人労働者が排斥された。しかし、何人かの中国人はオーレアンズ地域に留まり、何人かの白人土地所有者が人種暴動の鎮まるまで中国人鉱山労働者を匿い、食物を与えていた。中国人は1950年代になるまで海岸の都市部に戻っては来なかった[9]ロスト海岸
気候

郡内海岸地帯は雨が多く冷涼な冬と、乾燥し温暖で霧の多い夏がある。冬季、日中の最高気温は 40°F 台前半から 50°F 台後半 (5℃〜15℃) であり、最低気温は 30°F 台から 40°F 台 (0℃〜9℃) である。海岸部の夏は涼しいから温暖までで、日中の最高気温は 60°F 台 (16℃〜21℃) で、しばしば霧が発生する。内陸部に20マイル (32 km) 入ると、日照が豊富で暖かく、海岸部の霧の影響も無くなる。このことから海岸部の住人は夏には内陸に行き、長く続く霧から束の間解放されることを好む。霧は内陸に行くに従ってレッドウッドの森に遮られて消える。海岸部の夏は日中の最高気温は 50°F 台半ばから 60°F 台後半 (13℃〜21℃) であり、最低気温は 40°F 台後半から 50°F 台半ば (8℃〜13℃) である。最高気温はフォーチュナやリオデルなど数マイル内陸に入った所で起こる傾向にあり、希にハンボルト湾の周縁部や標高の高い地域でも起こる。その気温は 70°F 台前半から半ば (21℃〜24℃) である。海岸地帯では冬季と早春に凍るような夜を何日も経験する。ただし降雪や厳しい凍結は希である。海岸部の冬は冷涼で雨が多い。冬季には暴風雨がしばしば起こり、標高によって違うが年平均で30インチ (760 mm) から100インチ (2,500 mm) の降水量を記録している。

郡内内陸部の冬も雨が多く冷涼である。冬季には標高3,000フィート (900 m) 以上の地域で降雪が多い。夏季は海岸部と内陸部で気候に大きな差がある。ハンボルト郡の内陸部の最高気温は標高や大洋からの距離により、80°F 台から 90°F台 (27℃〜37℃) となる。郡内東部や南部のオーレアンズ、ホッパ、ウィロウクリーク、ガーバービル、ハニーデューおよび内陸の川の流域では100°F (38℃) になることも多い。
地質

ハンボルト郡と州の最北部全体はその歴史を通じてマグニチュード6.0以上の地震が頻発してきた。

2010年、ユーレカの西沖33マイル (53 km) でマグニチュード6.5の地震が起こったが、少数の者が負傷しただけで、家屋や施設への被害も少なく、死者は報告されなかった[10]
地理

アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は4,052平方マイル (10,490 km2)であり、このうち陸地は3572平方マイル (9250 km2)、水域は480平方マイル (1240 km2)で水域率は11.84%である。


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