ハンプトン・ホーズ
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ハンプトン・ホーズ
Hampton Hawes
ハンプトン・ホーズ(1953年)
基本情報
出生名Hampton Barnett Hawes, Jr.
生誕1928年11月13日
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス
死没 (1977-05-22) 1977年5月22日(48歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州 ロサンゼルス
ジャンルジャズ
職業バンドリーダーピアニスト
担当楽器ピアノ
活動期間1947年 - 1977年
レーベルコンテンポラリー・レコード

ハンプトン・ホーズ (Hampton Hawes) の名で知られるハンプトン・バーネット・ホーズ・ジュニア(Hampton Barnett Hawes, Jr., 1928年11月13日 - 1977年5月22日) は、アフリカ系アメリカ人ジャズピアニストビバップハード・バップのジャンルで活躍し、1950年代において最も優れた、また、影響力のあったピアニストの一人[1]モダン・ジャズ草創期の日本に米軍の一員として滞在し、多くの日本人ジャズメンとも交流があった。
経歴
生い立ち

ホーズは、1928年11月13日に、カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父ハンプトン・ホーズ・シニアは、ロサンゼルスのウェストミンスター長老派教会の牧師であり、アフリカ系アメリカ人として初めて、投票によって全国長老派会議に選出された人物であった。母ガートルード・ホールマン(旧姓)は、ウェストミンスター教会のピアニストだった。

ホーズが初めてピアノに向かったのは、まだよちよち歩きの頃、ピアノを練習する母親の膝の上に座っていたときからだった。3歳の時には、とても複雑な旋律を憶えて奏でることができたという。まったくの独学ながら、十代の頃のホーズは、デクスター・ゴードン、ウォーデル・グレイ、アート・ペッパー、ショーティー・ロジャーズ、テディ・エドワーズといった、ウエスト・コーストの有名ジャズ音楽家たちと共演するようになっていた。19歳のとき、生涯で2つ目に就いた職は、ハワード・マギーのクインテットと一緒に、ハイディホー・クラブで8ヶ月演奏するというものだったが、このときグループにはチャーリー・パーカーが加わっていた。
軍務で日本へ

ホーズは、1952年から1954年にかけて、米国陸軍の一員として軍務で日本に駐留した。この時期の日本は、戦後占領期の間にビバップを受容し、日本人演奏家によるモダン・ジャズが定着しつつあった。

日本に滞在中、ホーズは飛び入りで演奏に参加するなどして、植木等穐吉敏子などといった日本人ジャズメンとしばしば交流し、ジャム・セッションなどを行った。当時、ホーズと親しく接した日本人たちは、ホーズの姓を曲解してか、「馬(ウマ)さん」の愛称でホーズを呼んでいた。

ホーズは、1954年に、守安祥太郎を中心に当時の日本人モダン・ジャズ奏者が数多く参加したジャム・セッションで、録音が残されている、いわゆる「幻のモカンボセッション」にも参加しており、「テンダリー (Tenderly)」の演奏が残されている[2]
ジャズ・ピアニストとしての成功

除隊となり日本から帰国したホーズは、ベーシストレッド・ミッチェルと、ドラマーのチャック・トムスンと共に、自らのトリオを結成する。1955年にこのグループによってコンテンポラリー・レコードで録音され、3枚のレコードに収められた「Trio」のセッションは、当時のウエスト・コーストでも最良のレコードと評された。翌1956年、ホーズはギタリストジム・ホールをグループに加え、ロサンゼルスのコンテンポラリー・スタジオにおいて、休みなしの1回のセッションで「All Night Sessions」のレコード3枚分を一挙に録音した。

1956年には、6ヶ月かけて米国内各地をツアーで回り、「Down Beat」誌と「Metronome」誌の新人賞を獲得した。翌1957年には、チャールズ・ミンガスのアルバム「Mingus Three」に参加し、ニューヨークでミンガスとの録音を重ねた。
活動の休止

長年ヘロイン中毒と闘っていたホーズは、1958年に連邦政府の取り締まり当局に目をつけられた。連邦政府は、ロサンゼルスのヘロイン密売組織についての情報を探るためにホーズを利用しようとした。成功したホーズが、それを失うリスクを冒してまで、当局への協力を拒むことはないと考えたのである。おとり捜査で近づいた捜査員に、少量のヘロインを売り渡すと約束したホーズは、30歳の誕生日に逮捕されたが、話すことを拒否した。ホーズはこれによって、最小刑量の倍にあたる10年の刑に処され、連邦医療刑務所に収監された。逮捕されてから収監されるまでの間に、ホーズはスピリテュアルゴスペルの曲を集めたアルバム「The Sermon」をコンテンポラリー・レコードで録音した。

フォートワース連邦医療施設で3年間を過ごしていたホーズは、1961年ケネディ大統領の就任演説をテレビで見て、ケネディなら恩赦を与えるはずだと確信した。奇跡的な展開を経て、ケネディは1963年に、大統領在任最後の年に与えられたわずか43件の特赦の42件目として、ホーズに特赦を与えた。


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