ハンプシャー_(装甲巡洋艦)
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ハンプシャー (HMS Hampshire) はイギリス海軍装甲巡洋艦デヴォンシャー級。艦名の由来はイングランドのハンプシャー[1]目次

1 艦歴

1.1 第一次世界大戦


2 脚注

3 参考文献

艦歴

1902年9月1日にアームストロング・ホイットワース社エルジック造船所で起工され、1903年9月24日に進水。1905年7月15日竣工[2]海峡艦隊の第1巡洋艦戦隊に所属。1909年8月に予備役の第3艦隊に編入される。1911年12月に再就役して地中海艦隊の第6巡洋艦戦隊に編入され、1912年には中国艦隊に転属[3]
第一次世界大戦

第一次世界大戦が始まったときハンプシャーは威海衛にあり、中国艦隊司令長官Martyn Jerram中将が率いる小規模な部隊に加わった。ハンプシャーは装甲巡洋艦マイノーター、軽巡洋艦ニューカッスルとともにヤップ島にあるドイツの無線施設破壊を命じられ、向かう途中の8月11日に石炭船Elspethを沈めた。その時点でハンプシャーはヤップ島へ行くには石炭不足となっていたことからElspethの乗組員を乗せ香港へ戻らされた。同月末、ドイツ船捜索のためオランダ領東インドへ派遣され、ドイツ巡洋艦エムデンと遭遇しかけた。エムデンは9月にインド洋で通商破壊を開始。ハンプシャーはその捜索を命じられ[4]、武装商船エンプレス・オブ・エイジアとともに1914年11月9日に軽巡洋艦シドニーにより撃破されるまで捜索に従事した。ハンプシャーはANZACの兵員輸送船団をインド洋から紅海を経てエジプトまで護衛し、12月にはジブラルタルで修理を行い、それから本国に戻ってグランド・フリートに加わった[5]。1915年1月に第7巡洋艦戦隊に編入され、11月には北海へ派遣され船舶護衛に従事[3]。第2巡洋艦戦隊所属で1916年5月31日にユトランド沖海戦に参加[6]。だが、ドイツの第2偵察群に対して4斉射放ったのみであり、それも目標には届かなかった[7]

海戦後、ハンプシャーは元帥キッチナースカパ・フローからアルハンゲリスクへ運ぶ任務についた。強風のため、ペントランド湾を経てオークニー諸島の西を通るルートが選ばれた。これは風が島にさえぎられ護衛の駆逐艦がついてこられるコースであった。ハンプシャーはスカパ・フローから16時45分に出航し、約1時間後に護衛の駆逐艦ユニティとヴィクターと合流した。針路が北西になると風が強くなり駆逐艦は落伍した。このような状況では敵潜水艦の活動もないと考えられたため、ハンプシャー艦長Savillは駆逐艦にスカパ・フローへ戻るよう命じた[8]

Brough of Birsay、Marwick Head間のメインランド島沖約1.5マイルを航行中であった19時40分、突然爆発がありハンプシャーは右に傾いた。これは1916年5月28日から29日にドイツ帝国海軍UボートU75(英語版)により敷設された機雷によるものであった。ハンプシャーは爆発から約15分後に艦首から沈んだ[8]。乗員735名と乗艦者14名中、救助されたのは12名であった。ロシアへの使節団は元帥キッチナーも含め全員が助からなかった[9][10][11][12]

ハンプシャーの沈没にはドイツのスパイであるフリッツ・ジュベール・デュケインが関与したとする次のような話がある。クレメント・ウッドによるデュケインの伝記『The Man Who Killed Kitchener』によれば、デュケインはドイツ側情報機関の指令を受けて1916年6月に欧州へ渡ったとされる[13]。デュケインは実在のロシア貴族ボリス・ザクレフスキー公爵(Boris Zakrevsky)を騙り、スコットランド,オークニー諸島スカパ・フローにて元帥キッチナーが搭乗していたハンプシャーに乗り込んだ[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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