ハンブルク空襲
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この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年2月)

ハンブルク空襲(ハンブルクくうしゅう)は、第二次世界大戦中にイギリスアメリカドイツハンブルクに対して行なった一連の空襲作戦。

ドイツの大港湾都市ハンブルク第二次世界大戦の間イギリス空軍(RAF)とアメリカ陸軍航空軍(USAAF)の激しい爆撃にさらされた。1943年7月の空襲のうちの1回で火災旋風が発生し、これが何万人もの民間人の犠牲者を出した主因となった。
ハンブルクの戦い消火にあたる消防士ハンブルクの空襲の典型的な被害状況(1944年か1945年撮影)。

ハンブルクの戦い、コードネームゴモラ作戦は、イギリス空軍の指揮の下に行なわれた1943年7月末に始まる一連のハンブルク空襲作戦である。当時の航空戦史上もっとも甚大な被害を出した空襲であり、イギリス政府は後にこれを「ドイツのヒロシマ」と呼んだ。

この作戦の概要はイギリス首相ウィンストン・チャーチルが、ドイツ人を「悪事を犯した奴らが今こそ酷い報いを受ける番だ」と言ったことで知られるアーサー・ "ボマー" ・ハリス空軍大将の助けを借りて立案した。イギリス空軍爆撃部隊、カナダ空軍(en:RCAF)アメリカ陸軍航空軍(特に第8空軍)の共同作戦により8昼7夜に及ぶ「24時間体制」の爆撃が可能な連携が組まれた。イギリス軍が夜間に、続いてアメリカ軍が昼間に爆撃を行なった。

最初の空襲は7月24日の午前0時57分ごろイギリス空軍によりおよそ1時間にわたって行なわれた。続いて午後2時40分にはアメリカ陸軍航空軍による2回目が、7月26日朝には3回目が行なわれた。7月26日の夜の空襲は午前0時20分に行なわれたが、北海上で雷と強風に見舞われ多数の爆撃機が爆弾を機外に投棄したため、投下された爆弾は2発だけだったと報告されている。また27日は昼間の攻撃が行なわれなかった。

7月27日の間もなく午前0時になる頃、739機の爆撃機がハンブルクを爆撃した。当日が異常に乾燥し暖かかったことや、一つの地域に爆撃が集中しハンブルクの消防隊が最初に火災が発生した現場へ到達出来なかったことなど様々な要因が重なって、この空襲は甚大な被害をもたらした。爆撃の初期段階で使われる榴弾「クッキー(en:Cookies)」により、24日の被災地域で活動していた消防隊が都市の中心部へ入る妨げとなり、爆撃はいわゆる「火災旋風」を引き起こすに至った。家屋に貯蔵されていた石炭コークスといった燃料が火災の規模を拡大し、炎を伴った竜巻が発生して、この現象により屋外は溶鉱炉さながらとなった。最大風速は240km/h、気温は800℃に達した。市街は21km2に渡って焼け落ち、街路のアスファルトが突然発火して防空壕へ避難した者もしない者も大勢死亡した。ゴモラ作戦の犠牲者40,000人のほとんどがこの夜の空襲が原因で死亡している。

ゴモラ作戦で少なくとも50,000人が死亡したが、ほとんどが民間人だった。また100万人を越えるドイツ市民が家を失った。延べ3,095機の爆撃機が出撃して、ハンブルク上空に到達した2,630機が約9,000トンの爆弾を投下し、約315,000戸の家屋が破壊された。ハンブルク爆撃ほどドイツ政府に衝撃を与えた都市空襲はなかった。文書によればドイツ政府はすっかり恐れをなしてしまった。後に高級官吏に行なわれたこの空襲に関連する尋問からもそうした徴候が見られ、ヒトラーが同規模の攻撃が行なわれた場合ドイツは戦線離脱を余儀なくされるかもしれないと考えていた事が示唆されている。また、大規模空襲の実施をイギリスによるプロパガンダとして冷笑していた宣伝相のゲッベルスも被害の深刻さを率直に認め、防空の責任者である空軍大臣のゲーリングは次官のミルヒや戦闘機隊総監のガーランドなどと防空対策や反撃手段への協議に追われることとなった。第二次世界大戦が終結するまでハンブルクはこれ以外に69回空襲を受けた。

イギリス空襲部隊は戦時中にハンブルク上空で計440機の爆撃機を失ったが、うち攻撃初日に墜落したのは12機だった。
第二次世界大戦中のハンブルク空襲年表

イギリス空軍によるハンブルク空襲は以下の通り[1][出典無効]。
1939年


9月10日から11日にかけて10機の航空機がビラを撒いた。

1940年


11月15日から16日にかけてと、16日から17日にかけての夜間に合計200機の爆撃機による大空襲が行なわれた。最初の夜にブローム・ウント・フォス社(en:Blohm + Voss)の造船所が被害を受け、60件以上の火災が発生した。2回目の夜に襲来したのは60機で、被害も前者よりもはるかに少なかった。この空襲のわずか24時間後の11月14日から15日にかけてドイツ空軍は大規模なコヴェントリー爆撃を行なった。しばしば、これが報復目的の空襲だったとする向きもあるが、攻撃が予定されたのは24時間より前と考えられるため、復讐を企図して空襲を計画したという説は疑わしい。

1941年


3月12日から13日にかけての夜間。全257機によるハンブルク、ブレーメンベルリンへの大空襲。

3月13日から14日にかけての夜間。単発の空襲では最も多い51名の死者が出た。

4月。1ヶ月間ハンブルクが空襲の主要目標となる。

5月。ハンブルクはこの月に何度も空襲された。空襲はおよそ100機の爆撃機によって行なわれた。

5月11日から12日にかけての夜間。92機による大空襲。

6月27日から28日にかけての夜間。ブレーメン空襲。しかし50マイル距離を間違えたため、ほとんどがハンブルクへ誤爆。35機のうち11機が夜間戦闘機により撃墜された。

1942年


1月14日から1月15日にかけての夜間。95機による大空襲。うち、ハンブルクを空襲したのは48機だけとされている。ハンブルク=アルトナ駅が被弾した他、12ヶ所で火災が発生し、うち7ヶ所で延焼。6名死亡、22名負傷。爆撃機の墜落は報告されていない。

1月15日から16日にかけての夜間。96機による大空襲。ハンブルク爆撃に成功したのは52機とされている。36ヶ所で火災が発生し、うち3ヶ所で延焼。3名死亡、25人負傷。爆撃機11機墜落。

1月16日から17日にかけての夜間。ブレーメンを主要目標とする83機による空襲。しかしハンブルクも第二目標に設定されており、同市では11ヶ所で火災が発生し民間人5名が死亡、12名が負傷した。

2月16日から17日にかけての夜間。2機による空襲。詳細不明。

4月8日から9日にかけての夜間。173機による大空襲。75ヶ所で火災が発生し、うち33ヶ所で延焼。23名死亡、66名負傷。爆撃機8機墜落。

5月3日から4日にかけての夜間。81機による小編成の空襲。ハンブルク大火100周年に合わせて出撃。53機が目標物を爆撃したと推測される。113ヶ所で火災が発生し、うち57ヶ所で延焼。77名死亡、243名負傷、1,624名が焼け出された。爆撃機5機墜落。

7月26日から27日にかけての夜間。403機による大空襲。広範囲に渡って被害が出たが、そのほとんどは埠頭や工業地区ではなく住宅地区や半商業地区だった。少なくとも800ヶ所で火災が発生し、うち523ヶ所で延焼。823戸の家屋が破壊され、5,000戸を越える家屋に被害が出た。337名死亡、1,027名負傷、14,000名以上が焼け出された。爆撃機の墜落は29機であるが、これは出撃した全体の7.2 %に上る。

7月28日から29日にかけての夜間。256機による大空襲。悪天候により68発の爆弾を目標地域に投下するに止まる。56ヶ所で火災が発生し、うち15ヶ所で延焼。13名死亡、48名負傷。爆撃機の墜落率が高く、主要部隊の15.3 %がこの出撃で墜落した。

8月3日の昼間。10機による小規模な空襲。

8月18日の昼間。モスキート1機による擾乱(じょうらん)攻撃。

9月19日の昼間。モスキート2機による擾乱攻撃。

10月13日から14日にかけての夜間。同市を第二目標とした小規模な空襲。8名死亡、43名負傷。


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