ハンフリー・デービー
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ハンフリー・デービー
Henry Howard による肖像画(1803)
生誕 (1778-12-17) 1778年12月17日
コーンウォール州ペンザンス
死没1829年5月29日(1829-05-29)(50歳)
スイス ジュネーヴ[1]
国籍 イギリス
研究分野化学
研究機関王立協会王立研究所
主な業績電気分解ナトリウムカリウムカルシウムマグネシウムバリウムホウ素デービー灯
影響を
与えた人物マイケル・ファラデーウィリアム・トムソン
主な受賞歴コプリ・メダル (1805)
ロイヤル・メダル(1827)
プロジェクト:人物伝
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初代準男爵サー・ハンフリー・デービー(英語: Sir Humphry Davy, 1st Baronet、1778年12月17日 - 1829年5月29日)は、イギリス化学者で発明家[2]アルカリ金属アルカリ土類金属をいくつか発見したことで知られ、塩素ヨウ素の性質を研究したことでも知られている。ベルセリウスは On Some Chemical Agencies of Electricity と題したデービーの1806年の Bakerian Lecture[3]を「化学の理論を豊かにした最良の論文のひとつ」としている[4]。この論文は19世紀前半の様々な化学親和力理論の核となった[5]。1815年、デービー灯を発明し、可燃性の気体が存在しても坑夫が安全に働けるようになった。
生涯故郷ペンザンスにあるデービーの像

1778年12月17日、コーンウォールペンザンスに生まれる。教区記録簿によれば、ロバート・デービーの息子で、1779年1月22日に洗礼を受けたという。父は木彫職人で、利益よりも芸術性を追求する傾向があった。旧家の出身で、多少財産があった。妻グレースの家系も旧家だが、それほど裕福ではなかった。グレースの両親は熱病で相次いで亡くなり、グレースは姉妹と共にペンザンスの外科医ジョン・トンキンの養子になった。ロバート・デービーとグレースは5人の子をもうけた。ハンフリーは長男で、他に弟ジョン(en)(1790年-1868年)がおり、3人の妹がいた。ジョンはハンフリー同様に化学者となり、ホスゲン四フッ化ケイ素を発見している。

幼いころ一家はペンザンスから近郊にある先祖から受け継いだ土地に引っ越した。トンキンは幼いデービーの聡明さを見抜き、父親を説得して私立学校に転校させた。当初ペンザンスのグラマースクールに通っていたが、J. C. Coryton という聖職者の指導を受けるようになった。デービーは記憶力がよく本から素早く知識を吸収した。特に好きだった本としてバニヤンの『天路歴程』があり、歴史書もよく読んだ。8歳ごろには、市場の荷車の上に立ち、少年たちを集めて最近読んだ本の話を聞かせていた。そうして詩を愛するようになった。

同じころデービーは科学実験を好むようになる。これは主にクエーカーで馬具工を営んでいたロバート・ダンキンの影響である。ダンキンは自分でボルタ電池ライデン瓶を作り、数学の原理を視覚化する模型を作ったりしていた。それらを使ってダンキンはデービーに科学の初歩を教えた。後に王立研究所の教授になったとき、デービーはダンキンから教わった実験の多くを再現することになる。1793年、デービーはトルーローに行き、Cardew という博士の下で教育を終えた。Cardew は後に「彼がこれほど才能があることを見抜けなかった」と述べている。デービー自身は型に嵌められずに放っておかれたことが自分にとってはよかったと後に述べている[6]
年季奉公と詩人

1794年に父親が亡くなると、トンキンはデービーをペンザンスで病院を営む外科医ジョン・ビンガム・ボーラスに弟子入り(年季奉公)させた。年季明けは1795年2月10日となっていた。その病院の薬局でデービーは化学を学び、トンキンの自宅の屋根裏で化学実験を行った。デービーの友人はよく「あいつは手に負えない。そのうち俺たちを吹っ飛ばすだろう」と言っていた。また、妹の服に腐食性の化学物質で大きなシミを作ったことがある[6]

デービーの詩人としての側面は多くの者が言及しており、デービーの伝記を書いたジョン・アイルトン・パリスもデービーの詩について簡単に触れている。デービーが最初に詩を書いたのは1795年のことで、The Sons of Genius と題したその詩は若さゆえの未熟さが目立つ。その後数年間に多数の詩を生み出した。中でも On the Mount's Bay と St. Michael's Mount は感受性豊かで楽しげだが、真の詩的想像力は示されていない。デービーは間もなく科学に専念するため詩作を断念する。17歳のとき、初恋を詩にしていたころ、デービーは熱の物質性という問題をクエーカーの友人と熱心に議論していた。ダンキンはデービーについて「人生で出会った中で最も議論上手」だと述べたことがある。ある冬の日、デービーはダンキンをペンザンスを流れる川に誘い、2つの氷の板をこすりあわせると氷が溶け出すほどのエネルギーが生まれ、こするのをやめると復氷によって氷の板がくっつくという実験を披露した。後にデービーは王立研究所でさらに洗練させた形で同じ実験を披露し、注目を浴びた[6]
初期の科学的関心

王立協会フェローだったデービス・ギルバートは、ボーラス博士の自宅の門のところで偶然デービーと出会った。若者の話に興味を持ったギルバートは彼に自分の書斎を使わせることを申し出、自宅に招待した。そこで、聖バーソロミュー病院の付属医学校で化学講師を務めていたエドワーズ博士と出会う。エドワーズ博士はデービーに実験室の器具の使用を許可し、ヘイルの港の水門の問題を話した。当時、でできた水門が海水によって急速に腐食することが問題となっていた。当時ガルバニック腐食は知られていなかったが、その話からデービーは後に船体に銅板を葺いた船での実験を思いついた。ジェームズ・ワットの息子グレゴリー・ワットは療養のためペンザンスを訪れ、デービーの母の家に滞在した。そこでデービーと友人になり、デービーは彼から化学を学んだ。ウェッジウッド家も冬をペンザンスで過ごす習慣があり、デービーは彼らとも面識があった[6]

トーマス・ベドーズ (Thomas Beddoes) とジョン・ヘイルストーン (en) は地質学上の論争(地球上の岩石は火山によってできたのか、原始地球の海で鉱物が析出して結晶化したのか)を戦わせていた。2人はデービス・ギルバートの案内でコーンウォールの海岸の調査旅行にやってきた。その際にデービーとも知り合うことになった。ベドーズはそのころブリストルに気体研究所を創設したところで、研究所を指揮する助手を探していた。そこでギルバートがデービーを推薦。デービーの母とボーラスはそれに賛成したが、トンキンはデービーがペンザンスで外科医として働くことを望んでいた。しかし、デービー本人がベドーズの研究所で働くことを望んでいることを知ると、それを許した。
気体研究所ジェームズ・ワット

1798年10月2日、デービーはブリストルの気体研究所にやってきた。この研究所は人工的に製造した気体を医療に応用することを目的としており、デービーは各種実験の指揮を任された。ベドーズとデービーの間に交わされた取り決めは寛大なもので、デービーは父の残した不動産の相続権を全て放棄して母に渡すことができた。デービーは医者になることをあきらめたわけではなく、エジンバラ大学で学ぶことを考えていたが、間もなく研究所の一画でボルタ電池を多数作り始めた。ブリストルではダラム伯と知り合い、気体研究所で製造した亜酸化窒素(笑気ガス)を定期的に吸引しに来たグレゴリー・ワット、ジェームズ・ワットサミュエル・テイラー・コールリッジロバート・サウジーとも友人になった。ちなみにデービー本人も笑気ガス中毒依存症)になっている。このガスを最初に合成したのはイギリスの自然哲学者で化学者のジョゼフ・プリーストリーで、1772年のことである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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