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ハンヌ・ミッコラ
ハンヌ・ミッコラ(2014年)
基本情報
国籍 フィンランド
生年月日 (1942-05-24) 1942年5月24日
出身地フィンランド 北カルヤラ県ヨエンスー
死没日 (2021-02-26) 2021年2月26日(78歳没)
WRCでの経歴
活動時期1973年 - 1993年
所属チームフォード、トヨタ、アウディマツダ
出走回数123
チャンピオン回数1 ( 1983 )
優勝回数18
表彰台回数44
ステージ勝利数629
通算獲得ポイント655
初戦1973 ラリー・モンテカルロ
初勝利1974 1000湖ラリー
最終勝利1987 サファリラリー
最終戦1993 1000湖ラリー
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ハンヌ・オラヴィ・ミッコラ(芬: Hannu Olavi Mikkola、1942年5月24日 - 2021年2月26日)は、フィンランド、ヨエンスー出身の元ラリードライバーで、1983年の世界ラリー選手権 (WRC) ドライバーズチャンピオン。フィンランドの1000湖ラリーに7回 [1]、英国のRACラリーに4回優勝した。
経歴ミッコラの1970年ロンドン-メキシコ・ワールドカップ・ラリー優勝車フォード・エスコート
1963年のボルボ PV 544に始まるミッコラのラリーキャリアは31年に渡ったが、最も成功したのは1970年代と1980年代だった。1970年代、ミッコラはフォード・エスコートを駆る数多くの国際的イベントのフロントランナーだった。WRCドライバーズタイトルが創設された1979年には重要な局面をつくり、チャンピオンとなったビョルン・ワルデガルドに僅か1ポイント及ばず総合2位でシーズンを終えた。
ミッコラは1977年にスウェーデン人のコ・ドライバー、アーネ・ヘルツと組んだ。この組は非常に速く力を発揮し、エスコートで1978年の英国ラリー選手権タイトルを獲得した。ミッコラ / ヘルツのパートナーシップは1990年シーズンの終わりまで13年間続き、1991年シーズンはヨニー・ヨハンセンと組んだ。
ミッコラはフォードで1980年再びシーズン2位となったが、1981年シーズンには新しいアウディ・ファクトリー・チームに移り、革命的な四輪駆動アウディ・クアトロをドライヴした。この提携は当初から成功し、ミッコラはアウディのデビューイベント、1981年ラリー・モンテカルロをアクシデントでリタイアするまでリードした。次のWRCイベント、スウェーディッシュ・ラリーでは圧勝したが、クアトロは信頼性の問題を抱えており、RACラリーで更に勝利を重ねたにもかかわらずミッコラはドライバー選手権で3位となっただけだった。翌年は1000湖とRACに勝利したが、オペルのヴァルター・ロールとチームメイトのミシェル・ムートンに遅れ再度3位で選手権を終えた。アウディ・クアトロを駆るミッコラ(1986ラリー・モンテカルロ)
1983年はミッコラの年となった。4勝し3回2位となり、ついに彼とコ・ドライバー、アーネ・ヘルツが世界選手権タイトルを獲得した。続く1984年はチームメイトのスティグ・ブロンクビストに次いで選手権2位となったが、1985年は新しいグループB競技でアウディ・チームはプジョーとランチアに圧倒され、4戦エントリーに留まり3回リタイア、4位1回で最終順位は22位に落ちた。ミッコラは1987年シーズンまでアウディに残り、この年グループA アウディ・200でサファリラリーに勝利し、翌年マツダに移籍した。
1993年に完全にモータースポーツを引退するまで国際的なラリーにスポット参戦していたが、1991年にセミ・リタイアに入るまではマツダに留まっていた。その後ミッコラは1970年ロンドン-メキシコ・ワールドカップ・ラリー25周年記念ランでのコ・ドライバー、グンナー・パルムとの再会(ミッコラは1970年のこのイベントと1995年の再走に優勝している)や、1968年の1000湖ラリー [2]で優勝したフォード・エスコートで長男のユハ・ミッコラ とロンドン-シドニー・マラソン 2000 ラリー出場などを行った。
2008年9月、ミッコラはスコットランド・ラリー選手権のラウンド、コリン・マクレー・フォレスト・ステージ・ラリー( Colin McRae Forest Stages Rally )にフォード・エスコートで参加した。2007年に死去したマクレーの追悼イベントには何人かの元世界チャンピオンも参加しており、ミッコラもそのひとりだった。 長男のユハ (Juha Mikkola) はフロアボールのカナダ・カップの創設者。また、ユハの弟のヴェーサ (Vesa Mikkola) はスズキのワークスドライバーとして2004年ラリージャパンに参戦しており、このときハンヌ自身も来日している。甥のイルッカ・ミッコラ 年タイトル搭乗車
人物
家族
エピソード
英国のインディーズバンド、ハーフ・マン・ハーフ・ビスケットの1985年の歌 "Architecture and Morality, Ted and Alice" のオープニングでミッコラは不滅になった。“ハンヌ・ミッコラの素晴らしい腕前は / フィンランド人みんなと握手したくさせる”
ハンヌ・ミッコラは同着となった唯一の国際ステージラリーに関与した。1978年ビルマ・インターナショナルで、ミッコラとラッセル・ブルックスは全ステージ終了時同タイムでフィニッシュしたが、ミッコラは最初のステージでブルックスより速かったためこのイベントに勝利した。
戦績
タイトル
1968フィンランド・ラリー選手権