ハンニバル
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「ハンニバル」のその他の用法については「ハンニバル (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ハンニバル・バルカ
Hannibal Barca

生誕紀元前247年
カルタゴ
死没紀元前183年
ビテュニア
指揮カルタゴ軍最高司令官
戦闘第二次ポエニ戦争
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ハンニバル・バルカ(Hannibal Barca, ポエニ語: ?????????, 紀元前247年 - 紀元前183年/紀元前182年)は、カルタゴの名将。ハミルカル・バルカの長子。ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ハンニバルは「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」、「バアルは我が主」を意味すると考えられ、バルカとは「雷光」という意味である[要出典]。

第二次ポエニ戦争を開始した人物とされており、連戦連勝を重ねた戦歴から、カルタゴが滅びた後もローマ史上最強の敵として後世まで語り伝えられてきた。カンナエの戦いにおける包囲殲滅(せんめつ)は戦史上の金字塔として名高い[1]。2000年以上経た現在でも、各国の軍隊組織戦術家の能力を研究対象とし、参照するなど評価は非常に高い。

チュニジアで流通している5ディナール紙幣に肖像が使用されている。
生涯ハンニバルの行路(アメリカ合衆国陸軍士官学校戦史部Frank Martini作画)
少年期

第一次ポエニ戦争シチリア共和政ローマに奪われると、ハンニバルの父ハミルカルは、当時未開の地であったイベリア半島植民地化政策に乗り出す。そして植民都市カルタゴ・ノウァを建設し、イベリア人部族をまとめて兵士を集め、軍隊を養成した。ティトゥス・リウィウスによると、父に同行を願い出た際、バアルの神殿に連れて行かれたハンニバルは、ローマを終生まで敵とする事を誓わされたという。父の死後、ハンニバルは義理の兄にあたるハシュドゥルバルのもとで少年期を過ごす。地中海沿岸の版図(紀元前218年)【凡例】:赤=カルタゴ(中央)、イベリア半島の部族(左)。水色=ローマ。オレンジ=その他。★=主な戦場。
ハンニバル戦争.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "ハンニバル" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2023年11月)

アルプス越えアルプス山脈を越えるハンニバルの軍詳細は「ハンニバルのアルプス越え」を参照

紀元前221年に義兄ハシュドゥルバルが暗殺されると、ハンニバルはまだ26歳ながら軍に司令官として推され、カルタゴから承認を受ける。そしてイベリア半島戦線の指揮を執り、エブロ川南方の制圧に着手した。当時カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ローマはハンニバルの軍勢を恐れ侵入を阻止しようとエブロ川南方にある都市サグントゥム(現サグント)と同盟関係を結ぶ。しかし、ハンニバルはサグントゥムを包囲攻撃し、8か月後に陥落させた[注釈 1][要出典]。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に政府は何の手も打てなかった。

紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめ軍勢にはカルタゴの伝統に従い多数の傭兵が含まれ、歩兵9万人にリビア兵6万とヒスパニア兵3万、騎兵1万2千はヌミディア兵主体で、戦象37頭を率いた[2][注釈 2]。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで川岸とピレネー山脈を結ぶ戦線の守りに歩兵1万人と騎兵1千人を残し、また遠征に不安を訴えたヒスパニア兵は帰還させた。軍勢は歩兵5万と騎兵9千、戦象37頭に縮小、これを率いたハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。

ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深い森林の中で敵勢の進路を見失った。ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵の先遣隊を上流から対岸のガリア人掃討に向かわせたが、危険な渡河で多くの犠牲を出し、歩兵・騎兵あわせて軍勢を4万6千まで減らし(損失およそ25%)、戦象30頭は温存したようである。この渡河の際、ローヌ川下流を巡回していたハンニバル側500騎は自分たちを探索中のローマ兵300騎と出くわして戦端を切った。索敵に当たったローマ執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは敵の渡河から3日後に現地に駆けつけ、後塵を喫した。ハンニバルはすでにアルプス山脈に向かっていた。

このときのハンニバルのアルプス越えは、詳しいルートが分かっておらず、現在も歴史家[誰?]の間で意見が分かれている[要検証ノート]。ともあれ、ハンニバルは山中のガリア人を驚かせる作戦を立てると、戦象を先頭にして行軍をはじめた。途中で遭遇するガリア人に「ローマ人は敵だ」と言いふくめ、だいたいは金品を握らせて懐柔した。雪が降るほどの寒さや疲労、狭い山道と崖など、行軍は困難をきわめたが、ハンニバル軍はアルプスを越えた。軍勢はイタリア到着の時点で、歩兵2万、騎兵6千にまで減っていた。ポリュビオスによれば、この数字はハンニバル自身の記録による[4][要検証ノート]。この記録は現代の学者によっても踏襲される[5]ハンニバルのアルプス越えのルート(紀元前218年ころ)【凡例】赤い線=1850年代の主な道路。青い線=ハンニバル軍の進路(推定)。
カルタゴ軍は画面左端のグルノーブル(近代の地名)からイゼレ川添いに山地へ分け入り、この推定図では尾根伝いに右のトリノ方面へ通った説を表す。右寄り三分の一に3500メートル級のモンスニ山が位置する。(「図6:モン・スニ峠の行程」[6]、1853年発行)

ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマ元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名ハンニバル戦争、紀元前218年 - 紀元前201年)の始まりであった。
トレビアの戦いトレビアの戦い。


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