ハンナ・アーレント
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この項目では、哲学者について説明しています。彼女の伝記映画については「ハンナ・アーレント (映画)」を、小惑星については「ハンナ・アーレント (小惑星)」をご覧ください。

ハンナ・アーレント
Hannah Arendt晩年のアーレント(1975年)
生誕1906年10月14日
ドイツ帝国
プロイセン王国
リンデン(英語版)
死没1975年12月4日(1975-12-04)(69歳)
アメリカ合衆国
ニューヨーク州
ニューヨーク
時代20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派大陸哲学実存主義共和主義
研究分野政治哲学、近代性、歴史哲学全体主義
主な概念工作人、労働する動物、「労働」と「仕事」の区別、悪の陳腐さ、「活動的生活」と「観照的生活」の区別、権威(auctoritas)、出生(natality)
影響を受けた人物

ソクラテス、ベルナール・ラザール、アウグスティヌスイマヌエル・カントマルティン・ハイデッガーカール・ヤスパースヴァルター・ベンヤミンハンス・ヨナスなど

影響を与えた人物

ジョルジョ・アガンベンセイラ・ベンハビブ、ジャンニナ・ブラスキ、エリザベス・ヤング=ブルーエル、マリオ・コピック、ジュリア・クリステヴァアドリアーナ・カヴァレーロ丸山眞男、等

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ハンナ・アーレント(アレントとも[1]、Hannah Arendt、1906年10月14日 - 1975年12月4日)は、ドイツ出身のアメリカ合衆国政治哲学者思想家である。ドイツ系ユダヤ人であり、ナチズムが台頭したドイツからアメリカ合衆国に亡命し、教鞭をとった。

代表作『全体主義の起源』(1951年)などにおいて、ナチズムとソ連ボリシェヴィズムスターリニズムなどの全体主義を分析したことで知られる[2][3][4]
生涯
幼年時代

ドイツ、ケーニヒスベルクの旧い家柄である、ドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれる。出生地はハノーファー郊外のリンデン(Linden)。父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。両親ともに社会民主主義者であった。

父パウルはギリシアラテンの古典についての深い造詣を持つ教養人で、ハンナの読書は彼の蔵書から始まった。母マルタは注意深くハンナを育て、詳細な育児記録が残っている。それによると、幼いハンナは一人でいることを好まず、好奇心が強く、知的にきわめて早熟で、言葉や数学に対しては高い理解力を見せ、音楽を好みつつ音痴だったという。

両親ともに信仰を持たなかったが、家族ぐるみの付き合いであったラビのフォーゲルシュタインのシナゴーグに、幼いハンナは通う。一方、法律的な義務からキリスト教の日曜学校にも通う。またアーレント家のキリスト教徒のメイドたちからの影響も大きく、彼女の宗教観は複雑な発展をみせる。もっとも、後年、「子供の時以来、自分はいかなる時でも神の存在を疑ったことはない」[注釈 1]と述べたように、ある種の信仰は生涯通じて持ち続けた。

15歳の折、当時在学中だったルイーゼシューレにおいて、若い教師の授業をクラスメートと共にボイコットし、放校処分になる。その後、二学期の間ベルリン大学で学ぶ。神学教授のグァルディーニによるキルケゴールの授業に深い影響を受ける。半年間の独学ののち、1924年、18歳にして大学入学資格試験に合格、マールブルク大学に入学。
大学時代

1924年の秋、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、アーレントは哲学に没頭する。本人はこの哲学へののめりこみを、「初めての情事」という形で表現している[6]。なお、当時既婚であったハイデッガーとは一時不倫関係にあった[注釈 2]。また、ここで出会ったハンス・ヨナスとは終生の友人となり、同大学において共にルドルフ・ブルトマンの新約聖書のゼミを受講する。

その後、フライブルク大学エトムント・フッサールのもとで一学期間を過ごした後、ハイデルベルク大学に赴き、カール・ヤスパースの指導を受ける。博士論文は『アウグスティヌスの愛の概念』。この頃、クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想・活動に目を開かれている。

1929年9月、ギュンター・シュテルンと結婚。1931年にはフランクフルトに引越し、カール・マンハイムティリッヒの講義に参加する。ラーエル・ファルンハーゲンの研究は、この時期になされた。
ナチズム以降

ナチスが政権を獲得しユダヤ人迫害が起こる中、ブルーメンフェルトに協力し、反ユダヤ主義の資料収集やドイツから他国へ亡命する人を援助する活動に従事する。一度は逮捕される危険にあう。1933年フランスに亡命。この地でもシオニスト関係の仕事に従事する。1937年ギュンターと別れる。1940年スパルタクス団ドイツ共産党に参加した活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚。彼から政治的思考を学ぶこととなる。

第二次世界大戦が始まり1940年フランスがドイツに降伏する1941年アメリカ合衆国に亡命する。1951年、市民権取得、その後、バークレーシカゴプリンストンコロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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