ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー
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ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー, 2007 ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー(2001年撮影)

ハンス=ディートリヒ・ゲンシャー (Hans-Dietrich Genscher、1927年3月21日 - 2016年3月31日) は、ドイツ連邦共和国政治家自由民主党(FDP)の党首として、ドイツ社会民主党ヘルムート・シュミット、次いでキリスト教民主同盟ヘルムート・コールと連立政権を組み、1974年から1992年まで、副首相兼外務大臣を務めた。18年間にわたる外相在任は、現在のところドイツ史上もっとも長期の在任記録である[1]
目次

1 経歴・概要

1.1 出生から青年時代まで

1.2 政治家としての経歴

1.3 ユーゴスラビア内戦

1.4 ドイツ再統一

1.5 政界引退後


2 家族・表彰

3 関連項目

4 外部リンク

5 脚注

経歴・概要
出生から青年時代まで

ゲンシャーは、ハレ近郊のライデブルク(現ザクセン=アンハルト州ザール郡)に生まれた。この土地は、東西分断後、東ドイツ領となった土地である。父親は法律家であったがゲンシャーが10歳のときに死去した。ハレの高校に通っていたが、第二次世界大戦中の1943年から1945年まで、ゲンシャーは、ヒトラーユーゲントに参加し、後にドイツ国防軍で空軍補助兵の兵役に就いていた。1945年、18歳になったゲンシャーは、現役軍将兵が政治組織のメンバーになることを避けるよう促す規制があったにもかかわらず、ナチ党員となった。また本人の言によれば「親衛隊に配属されるのを避けるため」、同年ドイツ国防軍に志願した。

ドイツの敗北とともに、ゲンシャーは短期ながらイギリス軍の戦争捕虜となった。戦争終結後、ゲンシャーは建築助手で生計を立てつつ、ハレで大学入学資格を得たが、1946年冬に結核に罹り、3ヶ月のサナトリウム入院を強いられ、その後も入退院を繰り返した。その一方でハレ大学およびライプツィヒ大学法学経済学を修め、1949年に第一次国家司法試験に合格、ハレ地方裁判所で試補となった。
政治家としての経歴

1946年には東ドイツ自由民主党(LDPD)に参加。1952年8月、ゲンシャーは西ベルリンに逃亡し、ブレーメン地方裁判所の試補となった。この年、自由民主党(FDP)に参加。1954年ハンブルクで第二次国家司法試験に合格し、ブレーメンの法律事務所に勤務する。1965年ブレーメンからドイツ連邦議会総選挙に立候補し、初当選を果たした。以後、政界を引退するまで1998年まで議席を維持した。その後、党内のいくつかの役職(議員団事務局長、党事務局長、副党首)を経験した後、1969年FDPがドイツ社会民主党(SPD)と連立して成立したヴィリー・ブラント内閣の内務大臣として入閣する。内相としてミュンヘンオリンピック事件への対処を迫られ、この事件が悲劇的結末に終わったことから、対テロ特殊部隊GSG-9を創設した。また救急ヘリコプター配備に尽力した。 ゲンシャー(中央)とシュミット首相(1976年)

FDP党首で外相のヴァルター・シェールが連邦大統領に転じた1974年、折りしもギヨーム事件で辞任したブラントの後継首相となったヘルムート・シュミット(SPD)の内閣で、後任の外務大臣兼副首相に就任した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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