ハンス・フォン・ルック
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ハンス=ウルリッヒ・フォン・ルック・ウント・ヴィッテン
Hans-Ulrich von Luck und Witten
生誕 (1911-07-15)
1911年7月15日
フレンスブルク
死没 (1997-01-15) 1997年1月15日(85歳没)
ハンブルク
所属組織 ヴァイマル共和国軍陸軍
(Reichsheer)
 ドイツ国防軍陸軍
(heer)
軍歴1929年 - 1945年
最終階級大佐
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ハンス=ウルリッヒ・フォン・ルック・ウント・ヴィッテン(Hans-Ulrich von Luck und Witten、1911年7月15日 - 1997年1月15日)は、ドイツの軍人。第二次世界大戦中、ドイツ陸軍第7装甲師団や第21装甲師団(英語版)に所属し、ポーランドフランス北アフリカイタリアロシアなど各地を転戦した。最終階級は大佐(Oberst)。

エルヴィン・ロンメル元帥と親しかった人物の1人としても知られる。後に回顧録としてPanzer Commander: The Memoirs of Colonel Hans von Luckを著した。
若年期

ルックはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州フレンスブルグにて、13世紀から続くプロイセン王国陸軍軍人の家系に生を受けた[1]。彼の家系にはフリードリヒ大王の元で七年戦争を戦ったものがいたという。またルックの祖父に当たるオットー・フォン・ルックは家系で唯一の海軍士官としてドイツ帝国海軍に入隊し、第一次世界大戦中のユトランド沖海戦などに参加した。1918年のスペイン風邪で父が死去した後、養父は彼にプロイセン式の教育を施した[2]ラテン語ギリシャ語など古典的な言語を好んで勉強し、1917年4月1日にはフレンスブルグの修道院学校に入学した。ここで彼は目覚しい外国語力を身につけ、第二次世界大戦前には英語フランス語ロシア語を自由に使いこなせるほどになっていた。戦中はフランス兵やイギリス兵と会話する機会も多く、またソ連軍に投降した後には解放の交渉を行う為にロシア語を役立てた。

1929年、アビトゥーアに合格した後、シレジア騎兵連隊の士官候補生となり、ルックは伝統に従い陸軍士官としての軍歴を歩み始めた。入隊後間も無く東プロイセンの第1自動車化大隊への異動が決定するも、当時は騎兵こそ陸軍の花形と考えられていた事もあり、ルックはこれを悔やんだという[3]。しかし彼は自動車化大隊の中にあって、後に長らく率いる事となる装甲部隊の可能性を見出していく。

1931年から1932年にかけて、下級将校が負う義務の一環としてドレスデンの歩兵学校にてエルヴィン・ロンメル大尉が指導する9ヶ月の講義に参加した。1932年秋には中尉に昇進し、1933年にはルックの部隊に初の偵察戦闘車が与えられ、装甲偵察大隊への第一歩を踏み出した。1934年6月30日に発生した長いナイフの夜事件では、配下の部隊と共にシュテッティンにて突撃隊幹部の逮捕に協力した[4]

1936年、ルックはポツダムに駐留する第8装甲偵察大隊第3中隊の指揮を任される。彼は第3中隊長として過ごした期間の大部分を、新たなドイツ装甲軍のドクトリン形成を担当していたハインツ・グデーリアン将軍指揮下の任務に費やした。その後も数年の間に様々な装甲部隊にて経験を重ね、休暇の際はヨーロッパ中を旅行して過ごしたという。

1939年、彼はゲオルク・シュトゥンメ将軍率いる第2軽師団の第7装甲偵察大隊に配属された。


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