ハンス・クナッパーツブッシュ
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ハンス・クナッパーツブッシュ
Hans Knappertsbusch
1920年代前半
基本情報
別名クナ (Kna)
生誕1888年3月12日
出身地 ドイツ帝国
プロイセン王国
エルバーフェルト(現ヴッパータール
死没 (1965-10-25) 1965年10月25日(77歳没)
ドイツ連邦共和国
バイエルン自由州
ミュンヘン
学歴ボン大学ケルン音楽院
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1910年 - 1964年
レーベルポリドール グラモフォン オデオン エレクトローラ デッカ フィリップス ウェストミンスター
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ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch, 1888年3月12日 - 1965年10月25日)は、ドイツ指揮者。ヨーロッパを中心に活躍し、とくにリヒャルト・ワーグナーアントン・ブルックナーの解釈者として知られる。1951年から1964年にかけて、ほぼ毎年出演したバイロイト音楽祭では主幹的指揮者を務めた[1]
出生 - 初期のキャリアクナッパーツブッシュの生家(2009年)生家の銘板

ハンス・クナッパーツブッシュは1888年3月12日、ノルトライン=ヴェストファーレン州エルバーフェルト(現在のヴッパータール)で、蒸留酒製造業者[注釈 1]のグスタフ・クナッパーツブッシュと妻のユリー(旧姓ヴィーガント)の二男一女の次男として生まれた[注釈 2][画像 2]。彼は子供の頃からヴァイオリンを弾き、コルネットを吹いた。彼は12歳までにはギムナジウムのオーケストラを指揮していたが[3]、両親は息子が音楽の道に進むことを認めず、哲学を学ばせるためにボン大学に入学させた(彼は後にミュンヘンでも哲学を学び、卒業論文は『パルジファルにおけるクンドリー』であったと言われる)。しかし、大学卒業後、彼は両親の意向に反してケルン音楽院で学んだ。そこで彼は院長のフリッツ・シュタインバッハから指揮法を[3]、ケルン歌劇場(ドイツ語版)の首席指揮者で作曲家のオットー・ローゼ(ドイツ語版)から作曲法を、クララ・シューマンヨアヒム・ラフの弟子であるラッザロ・ウツィエッリ(英語版)からピアノを学んだ。

クナッパーツブッシュは1909年からカペルマイスターとしてミュールハイム・アン・デア・ルールボーフム、エルバーフェルト、ライプツィヒを拠点としてキャリアを開始し、1912年までの期間、当時バイロイト音楽祭の芸術監督であったジークフリート・ワーグナーと、当音楽祭で活躍したワーグナー指揮者、ハンス・リヒターのアシスタントを務めた[3][4]。この時期は、彼の音楽解釈法に影響を与え、国際的な地位を占めるワーグナー指揮者としての彼の成長期となった。1913年9月15日、彼はエルバーフェルト劇場でルイ=エメ・マイヤール(フランス語版)のオペラ・コミック、『ヴィラールの竜騎兵(フランス語版)』を指揮して正式な歌劇場デビューを飾り[注釈 3]、翌1914年にはオランダのワーグナー音楽祭を指揮して初めて耳目を集めた。その後、1919年にデッサウのアンハルト劇場(ドイツ語版)において、フランツ・ミコライの跡を継いでドイツ最年少の総合音楽監督となった[3]。1922年にはミュンヘンに赴き、ブルーノ・ワルターの後任としてバイエルン国立歌劇場とオデオンのアカデミー・コンサートの監督に就任し、1935年までその任に当たった。その間の1924年には彼は教授に任命されている[6]
ナチス・ドイツ時代

リヒャルト・ワーグナーの没後50周年にあたる1933年、作家のトーマス・マンがミュンヘンで「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ」と題する講演を行い、ワーグナーと彼の作品に敬意を表すとともに多角的な批判を行なった。情熱的なワーグナー崇拝者であったクナッパーツブッシュはマンを非難すべく、作曲家ハンス・プフィッツナーの協力を得て「リヒャルト・ワーグナーの都市ミュンヘンへの抗議」を書き、マンの批判を厳しく攻撃し、とりわけマンのヴァイマル共和政への支持を糾弾した。抗議書は、リヒャルト・シュトラウスを含むミュンヘン市の約40名の著名な文化人や政治家の連名により、ラジオや日刊紙の「ミュンヒナー・ノイエステ・ナッハリヒテン(ドイツ語版)」で発表された[注釈 4][7]

クナッパーツブッシュの政治的信条はドイツ民族主義であったが、彼はナチスの党員ではなく[8]、ナチズムに同情的でもなかった。党に対する彼の個人的な反感は、すぐにナチ主義者によって彼が「政治的に信頼できない」人物とみなされることとなった。彼は政権下でコンサートのオープニングに演奏することを求められていたナチス党歌「旗を高く掲げよ」の演奏を拒否し、アドルフ・ヒトラーの怒りを買うことを辞さなかったので、その地位は長くは続かなかった[注釈 5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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