ハンガロリンク
Hungaroring2018年の空撮より
所在地 ハンガリー・モギョロード
ハンガロリンク (Hungaroring) はハンガリーの首都ブダペスト郊外にあるサーキット[1]。現地ではフンガロリンクと発音する人が多い(オンガロリンクとも)。全長4.381Km。
1986年より東欧の国としては初めてのF1レースである、ハンガリーGPの舞台となっている。また、1990年と1992年には2輪のハンガリーGPも開催された。 1985年着工。元々丘陵地だった場所を切り開いて建設した事もあり、高低差が非常に大きいのも特徴。そのため鉢の中にサーキットがあるような独特な形をしており、どの観客席からもサーキットのほぼ全面を見渡すことができる。周りにある小高い丘から飛散する砂埃がコース上にたまりやすく、ハンガロリンクの特徴の1つと言える埃っぽい路面が形成される。 サーキット入り口の公園には歴代F1チャンピオンとハンガリーGP開催に大きく関わったバーニー・エクレストンの銅像が並ぶエリアがある。また大型レジャープールも開園した。 コントロールラインを通過すると、急激に下りながら鋭角なヘアピンとなった1コーナーへ。搬入通路のアンダーパスを下り、緩い左ヘアピンを通過。すぐに右90度ターンを迎えて高低差の激しいアップヒルストレートへ。スピードを生かしたまま、ハンガロリンクでも屈指の難コーナーであるブラインドとなった超高速の4コーナーを通過し、スピードを殺さずに右に大きく回り込む5コーナーへ。ここからは上り坂が続き、右→左のシケインを通過する、W字になった連続中速コーナーを抜ける。2003年に改修されたダウンヒルストレートから右90度の12コーナーを通過。左→右と続く連続180度ターンをまわって1周となる。 低速コースと言われているが、低速コーナーばかりという事ではなく、アップヒルストレートからの左の高速4コーナーやアクセル全開で抜けるW字コーナーの出口である10コーナー、その直後の右に切れ込む11コーナーなど高速コーナーも3箇所存在する。アレクサンダー・ヴルツ曰く、1つのコーナーでミスをすると3つ4つ先のコーナーまでも確実にタイムが食われると語っている。 当初は全長4km足らずのコースに20以上のコーナーが点在する低速コースで、1986年のF1初開催時には予選トップの車両の平均速度は時速161kmだった。これは同シーズンのF1で、モナコ、デトロイトの各市街地コースに次ぎ3番目に遅い記録だった。ホームストレートが500m弱と非常に短く、最終コーナーと1コーナーの曲率半径が全く同じという珍しい形だった。アップヒルストレートから続く現在の4コーナーは、少し右に切り返しつつ、左に曲がるため、今よりも通過速度が遅い。旧11コーナーを出るとすぐに右→左のシケインとなっており、斜めに走って現在の13コーナーに合流していた。 2時間ルールに抵触した事もあり、平均速度上昇のために1989年に3コーナー周辺のシケインを廃止。2003年にホームストレートを200m以上延長し1コーナーを鋭角なヘアピンに。アップヒルストレートエンドの4コーナーは2つのコーナーから1つの高速コーナーへ。コース後半部のインフィールドエリアのレイアウトを変更し、短いストレートを設置する大改修を行い、2009年にはF1の平均速度が200km/hほどになった。F1でのオーバーテイクは他の近代サーキット同様非常に難しく、真夏の開催であるためドライバーの身体的負担も高いとされる。 低速サーキットのハンガロリンクでは、思わぬ波乱が起こる事も多い。特にコースが改修された2003年以降は波乱が多く起こり、2002年から2008年まで毎年、ハンガリーGPの勝者は変わっている。デイモン・ヒル、フェルナンド・アロンソ、ジェンソン・バトン、ヘイキ・コバライネン、エステバン・オコンとここで初優勝を挙げた者も多い。予選重視という事でポールシッター有利と思われがちであるが、これまでのハンガリーGPのポールシッターは36戦16勝であり、勝率がかなり低い。 1986年にはウィリアムズのネルソン・ピケとロータスのアイルトン・セナ、1988年にはマクラーレンのチームメイト、セナとアラン・プロストが抜き合いを演じた。第3コーナーのシケインが撤去された1989年は、ナイジェル・マンセルが予選12位から追い上げて優勝し、周囲を驚かせた。マンセルは改修された第3コーナーの脱出速度が高く、続くストレートの終わりまでの区間で前車を追い越すことを成功させた。 1992年のレースでは、同年のF1を圧倒的な成績で支配していたナイジェル・マンセルが2位に入り、自身初のワールドチャンピオンを確定させた。優勝はアイルトン・セナ。 1997年はアロウズ・ヤマハのデイモン・ヒルがトップを独走。優勝かと思われた残り2周でギアボックスが故障。2番手追走のジャック・ヴィルヌーヴがアップヒルストレートでダートにはみ出しながらヒルをオーバーテイクし、そのままフィニッシュ。ヒルの優勝は露と消えたが2位表彰台を獲得し、アロウズとヤマハエンジンの最高位を更新した。 1998年はレース序盤からマクラーレンがワンツーを形成するが、3位を走っていたミハエル・シューマッハがピットストップを3回に増やし、代わりに燃料搭載量が少なく、柔らかいタイヤを履いた状態でハイペースを維持する戦略をとった。この作戦が当たり、2ピットだったマクラーレン勢を逆転して優勝を果たす。 コースが大改修された2003年のレースはフェルナンド・アロンソがポール。ウィリアムズの2台がスタートに失敗し、ルーベンス・バリチェロはショートカットでマーク・ウェバーを前に出す。2番手となったウェバーは後方を抑え、トレイン状態となり3番手以下は抜くに抜けない展開に。独走状態となったアロンソはそのままキャリア初優勝を果たした。 2006年はハンガリーGP史上初のレインレースに。雨でラインの自由度が増し、序盤からオーバーテイクが大量に見られた。トップを独走するアロンソがホイールナットが外れて2コーナーを曲がれず、コースアウトしリタイア。14番手からオーバーテイクを重ねて追い上げたジェンソン・バトンがキャリア初優勝。第3期ホンダも初優勝となる。 2008年は3番手スタートのフェリペ・マッサがスタートダッシュに成功し一気にトップへ。そのまま独走で優勝かと思われたが残り3周、ホームストレートでまさかのエンジンブローを喫し涙を飲む。2番手追走のヘイキ・コバライネンがキャリア初優勝。 2009年は予選Q2でマッサの前を走っていたバリチェロのマシンからこぼれた約800gのスプリングがマッサのヘルメットの左バイザーの付近に直撃、その衝撃でマッサは気を失い時速270km/h近いスピードでタイヤバリアに衝突し、頭蓋骨の損傷や脳震盪などにより緊急手術が行われ、翌日の決勝レースは欠場。フェラーリはキミ・ライコネンの1台体制となった。
概観、施設
コースレイアウト
度重なる改修
1986-1988年
1989-2002年
2003年-
過去のF1レース
1980年代
1990年代
2000年代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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