ハンガリー革命_(1848年)
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1848年3月15日、群衆の前でネムゼイ・ダル(英語版)を朗読するペテーフィ・シャーンドル(ジッチー・ミハーイ(英語版)画)

1848年のハンガリー革命は、1848年革命の一つであり、ハプスブルク朝の下にあるオーストリア帝国からハンガリー王国が独立しようとした革命である。また、コシュート・ラヨシュセーチェーニ・イシュトヴァーンペテーフィ・シャーンドルユゼフ・ベム等を含むこの革命の参加者はハンガリーの歴史に於いて国家的な英雄とみなされている。また、この革命が始まった3月15日はハンガリーで国民の祝日となっている。
革命の興り

そもそも、ハンガリー国会は1811年まで召集されることがなかった[1]ナポレオン戦争の後の1825年フランツ2世がハンガリー貴族に対して税金をかけ財産を減らそうと目論み国会を召集した。この事はヨーゼフ2世に継承され、改革時代(ハンガリー語: reformkor)としても知られた。しかし、貴族は依然として無税特権を保持しており、更に大衆には選挙権を与えなかった。この時期の改革は、公用語が今までのラテン語からハンガリー語に変更された程度にとどまっていた。

ハンガリーの有力政治家セーチェーニ・イシュトヴァーン伯爵は国家を日進月歩させる必要性を考えた。そして、ハンガリー国会は1825年に経済的要求の解決のために再び召集された。小作人を重視する自由党が国会では台頭し、この時コシュート・ラヨシュは著名なジャーナリストであったが、下院の首長として台頭した。

コシュートの大望はハンガリーを現代的な民主主義で、憲法による言論の自由及び市民の平等が保障されている国家にすることであった。ハプスブルク朝の支配下にあることによってこの公民権改革及び経済改革が困難になっていたが、人々は彼の近代化指針を支持した。そして、コシュートやターンチチ・ミハーイのような多くの改革者は投獄された。
勃発

革命自体は1848年3月15日に始まった。

大衆は十二か条の要求の帝政による受け入れを目的として、ペシュトブダをデモ行進した。それを契機にハンガリー王国中で反乱が起き、その圧力により王国政府も動き、ハンガリーはバッチャーニ・ラヨシュを首相とした新しい国会を作ることを国王の名をもって宣言した。新政府は旧体制を一掃して認められ、民主的政治機構に基づいて作られた四月法にも言及した[2]。それと同時に、新政府はハンガリー国内で徴税された金銭の使用権をハプスブルク家からハンガリー自身に取り返す必要性が生じ、国会はハプスブルク軍と対峙を余儀なくされた。1848年にハンガリーが使用した円形章

同年夏、ハンガリー王国政府重役は市民戦争を俯瞰して、ハプスブルク朝に抵抗するクロアチア及びダルマチアの伯爵であるヨシップ・イェラチッチを攻めることによって、ハプスブルク朝の支援を受けようとした。そして、北イタリアに軍隊を派遣した。8月末、ウィーンの帝政府はペシュトにあるハンガリー政府に対し、軍隊の撤退を要求した。イェラチッチは当時ハンガリー国内に侵入しており、予想と異なっていた。そして、イェラチッチはオーストリア帝国の統治が及ばない間にハンガリー政府を潰滅させた。

ハンガリーは三方面、南のイェラチッチの三位一体王国軍と東のバナト及びトランシルヴァニアに居住するハンガリー人、そして西のオーストリアのハンガリーに悩まされた。

ペシュトでの運動は可能性があるように見えた。9月には国会はペシュトの暴動を譲歩させ、帝国を崩壊させないようにした。しかし、反革命軍が介入してきた。彼ら、ボヘミア王国軍及びクロアチア軍はその後多くの地域での勝利を経て、翌1849年1月5日にペシュトに突入し、暴動は鎮圧された[3]

オーストリアはこの時、ウィーン暴動に襲われていた。このため、初めはハンガリー政府が成立した。オーストリアは他の地域を鎮圧し、ウィーンの大衆を従えた。結果、1848年3月13日クレメンス・フォン・メッテルニヒはオーストリアの大法官の任を解かれ、彼は保身のためにロンドンへ逃れた。

ウィーンでオーストリアへの暴動が収束した後、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ1世を叔父のフェルディナント1世に交代させようとする秘密結社が設立された。フランツ・ヨーゼフ1世はその治世でハンガリー政府を承認しなかった。しまいにはウィーンとペシュトの間でオーストリア陸軍元帥フランツ・フィリップ・フォン・ランベルクが全ハンガリー軍及びイェラチッチ軍を掌握した。彼はハンガリーへ向かい、邪知暴虐な殺人を働いた。そして、帝政はハンガリー政府の取潰しを決定し、明文化はされていないものの、イェラチッチはランベルクの下でハンガリー王国の王権及び最高司令官の地位を賦与された。

ここにオーストリアとハンガリーの間で開戦がなされた。
独立戦争

1848年及び翌1849年、マジャール人は独立を欲していたが、ハンガリー及びトランシルヴァニアの1/3の領域でしか多数派になっていなかった。そしてマジャール人は彼らの伝統的な領域に束縛されていた[4]。その領域の北はナジソムバト(現在のスロバキアトルナヴァ)、ニトラプレショフに至っていたが、そこには200万人のスロバキア人が住み、加えてごく少数のルテニア人が住んでいるのみであった[4]

南にはクロアート人とスロヴェーン人がドナウ川サヴァ川ドラーヴァ川を境に住んでおり、さらに東に進むと100万人を超えるセルビア人の居住地区があった[4]。これらのスラヴ系民族の領域はワラキア人やトランシルヴァニア・ザクセン人と関連している[4]。しばしばこれらの民族の違いは戦争を引き起こした。

クロアート人やセルビア人、ルーマニア人が巧みに操られているオーストリア帝国では、いつかマジャール人が服従するとセルビア人を始めとした他民族が翻ることを想定していた。これらの民族の中には、首長が独立を獲得するためにハンガリー政府に対して戦闘を持ちかけようとした者もあった。これはマジャール人と多くのルーマニア人との間に多くの残虐な事件を引き起こした。

しかし、マジャール人はスロバキア人、ドイツ人ルシン人、ハンガリー・スロベニア人[5][6][7]ユダヤ人及び多くのポーランド人、オーストリア人、イタリア人支援者の支援を受けていた[8]

1849年7月28日、ハンガリー革命議会は民族及び少数派に関する権利に関する法律を制定した。しかし、これらはロシア帝国軍及びオーストリア軍の介入によるハンガリー革命の制圧によって無効化された[9][10][11]

オーストリアはこの時、分割戦略を過剰にやり過ぎて制圧したために、予期せぬ結果を生じさせた。当初、積極的な反マジャール人主義者でなかったスロバキア人も、ハプスブルク朝に反してハンガリー政府を支援する側に寝返らせた。しかし、オーストリアの二重支配は1849年に別の側面ももたらした。
セルビア

ティサ川からトランシルヴァニアに及ぶ境界線の東側には、かつてバナトと呼ばれたハンガリーの一部[12]が、南端をドナウ川として存在していた。その南端にはベオグラードが現在のセルビアの一部にあたるスレム地域近郊に位置している。長らくドナウ川はオスマン帝国とハンガリーの境界線としてみなされていた。しかし、1804年セルビア王国が分離独立するとベオグラードを首都とした。


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