ハンガリーアンジュー朝
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アンジュー朝時代のハンガリーの旗

ハンガリー・アンジュー朝(ハンガリー語:Anjou-kor)は、1308年から1395年までハンガリー王国を支配した王朝。フランスカペー家の支族で、ナポリ王国を支配したアンジュー=シチリア家の支流による王朝である。この王朝下でハンガリーは黄金時代を迎えたが、王国衰退の遠因が発芽した時代でもあった。
歴史
アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの即位カーロイ1世

1301年アンドラーシュ3世が嗣子をもうけることなく没したことにより、アールパード朝は断絶する。ハンガリー貴族はアールパード家の女系子孫から国王を迎えることにし、ボヘミアプシェミスル家からヴェンツェル(のちにヴァーツラフ3世としてボヘミア王位に就き、ポーランド王も兼ねた)、バイエルンヴィッテルスバッハ家から下バイエルン公オットー3世がハンガリー王位に就いたが、いずれも短期間の在位に終わった(いずれもベーラ4世の血を引いていた)。

アンジュー家ナポリ王カルロ2世の長男カルロ・マルテッロはハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアが母であり、1290年に叔父ラースロー4世が暗殺された後に自身の王位継承を主張してアンドラーシュ3世の即位を認めず、教皇ニコラウス4世の承認の下に名目上のハンガリー王を称していたが、すでに1295年に死去していた。しかしその息子カルロ・ロベルト(カーロイ・ローベルト)は、1308年カーロイ1世として即位することになった。これがハンガリー・アンジュー朝の始まりである。

カーロイ1世の治世はハンガリーの再建にほとんど費やされた。即ち、金属の独占と通貨改革で国庫収入を安定させたのである。折からの銀山出高の増大が一層の拍車をかけた。

カーロイ1世の守勢的な政策は対外政策にも表れた。ダルマチアヴェネツィア共和国に割譲し、ボスニアへの支配を名目的なものに留めたからである。もっとも、カーロイ1世の対外政策は必ずしも守勢的ではなかった。膨張著しいハプスブルク家に対抗するために、1335年にボヘミア王ヨハンとポーランド王ヴワディスワフ1世を仲裁することによって、ハンガリー(アンジュー家)・ボヘミア(ルクセンブルク家)・ポーランドピャスト家)の3ヶ国連合を築こうとしたからである。これは婚姻政策にも現れており、カーロイ1世の最初の妃マーリアはピャスト家の支族出身、2番目の妃ベアトリクスはヨハンの妹、3番目の妃エルジェーベトはヴワディスワフ1世の娘であった。特に最後の結婚はハンガリー=ポーランド連合王国への道を開くものであった。
ラヨシュ大王の野望と挫折ラヨシュ1世

1343年にカーロイ1世が死去し、最後の王妃エルジェーベトとの間にもうけたラヨシュ1世が新たに王位に就いた。ラヨシュ1世は、父王とは異なり積極的な対外政策を行い、「大王」とも「騎士王」とも呼ばれた。しかし、内実が伴わない政策がほとんどであり、衰退の兆しが現れる。
バルカン政策「ハンガリーによるヴィディン占領」も参照

元来、ハンガリーは13世紀以降からバルカン半島は自国の支配下にあると考えていたが、ラヨシュ1世はこれを実現しようとした。宿敵であったセルビアステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの死がこれに拍車をかけた。ラヨシュ1世は数回にわたり、セルビア、ブルガリア、ボスニア、ワラキアモルダヴィアに軍を進めた。遠征は数年にも及んだが、成果としては名目的な支配権を認めさせるに留まった。また、この時代にはオスマン帝国が勢力を膨張させつつあったが、1375年にこれを破っている。
ナポリ・アドリア政策「ラヨシュ1世のナポリ遠征」も参照

ラヨシュ1世がバルカン政策と並んで生涯を費やしたのが、ナポリ王位の請求である。ラヨシュ1世がハンガリー王位に就いた翌年の1343年にナポリ王ロベルトが死去した。その孫娘ジョヴァンナ1世はラヨシュ1世の弟アンドラーシュ(エンドレ、アンドレア)を最初の夫として共同統治することになったが、アンドラーシュは王配の地位に留められた上、1345年に暗殺された(ジョヴァンナ1世の関与が疑われた)。

ラヨシュ1世はこれを好機としてナポリ王位を要求して軍を進め、1347年に王都ナポリを占領する。しかし、ローマ教皇クレメンス6世の介入により、請求を捨てざるを得なくなった。後の1382年、ラヨシュ1世は自分の息のかかった同族のドゥラッツォ公カルロにジョヴァンナ1世を暗殺させ、カルロ3世として王位に即けている。

他方、1356年に始まったヴェネツィアとの戦いではダルマチアを奪還したばかりではなく、ラグーザ共和国まで兵を進めている。そして1358年のザーラ条約でアドリア海の覇権を確かなものにした。
ポーランドとの連合「ポーランド・アンジュー朝」も参照

1370年に母エルジェーベトの弟であるポーランド王カジミェシュ3世が嗣子無くして没し、母の働きによりラヨシュ1世がルドヴィク1世としてポーランド王位に就いた。しかしその王権は不安定なもので、シュラフタ(ポーランド貴族)への過度の特権譲歩を余儀なくされた。一方、ハンガリーでもラツクフィ家、ガライ家、ホルヴァート家といった大貴族(マグナート)が力を増した。ハンガリー・ポーランド両国で貴族の権限が増加したことは、両国の王権の衰退を意味するものであり、滅亡の遠因となっていく。
ハンガリー・アンジュー家の断絶

ラヨシュ1世は1382年に死去し、王国は年長の娘マーリアが継承する。これに対して、ハンガリーとの連合を嫌うポーランド貴族は、マーリアの妹ヘドヴィグ(ヤドヴィガ)を女王として同君連合を解消する。他方、ハンガリー国内でもマーリアの即位を巡って貴族間で抗争が勃発する。これを好機と見たナポリ王カルロ3世はハンガリーに軍を進め、1385年にカーロイ2世として即位するが、翌1386年に暗殺された。その後いくつかの段階を経て、マーリアが許婚であるルクセンブルク家出身(神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の子)のジグモンド(ジギスムント、後の神聖ローマ皇帝)と共同でハンガリーを治めることになった。


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