ハワード・キール
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ハワード・キール
Howard Keel
アニーよ銃をとれ』の予告編
本名Harry Clifford Keel
生年月日 (1919-04-13) 1919年4月13日
没年月日 (2004-11-07) 2004年11月7日(85歳没)
出生地イリノイ州ギレスピー
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優
活動期間1945?2002年
配偶者Rosemary Cooper (1943-1948)
Helen Anderson (1949-1970)
Judy Keel (1970-2004)
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ハワード・キール(Howard Keel、1919年4月13日 ? 2004年11月7日[1])は、アメリカ合衆国俳優歌手。豊かなバス・バリトンの歌声で知られる[2]1950年代、数多くのMGMミュージカルに主演し、1981年から1991年までCBSの連続ドラマ『ダラス』に出演した。
略歴

本名はハリー・クリフォード・キール (Harry Clifford Keel)。本名をハロルド・クリフォード・リーク (Harold Clifford Leek) としている資料も存在するが、これは誤りである。名のハロルドはデビュー当時に使っていた芸名で、姓のリークは映画会社の広報部が誤って広めたものである[3]。趣味はゴルフで、1951年当時は70前半で回る腕前を持っていた。

オスカー・ハマースタイン2世に認められ、ショウビジネス界入り。1947年ロジャース&ハマースタインによるミュージカル、『オクラホマ!』のロンドン公演で成功を収める。1949年にはハリウッドに招かれ、翌年の『アニーよ銃をとれ』に出演。ハンサムなルックスと193cmの長身、豊かなバリトン1950年代を代表するミュージカルスターとなる。しかし、ミュージカル映画の衰退に伴ってキャリアは低迷し、1950年後半からはブロードウェイや地方の舞台を踏む傍ら、B級映画に出演していた。1981年になって、1978年から放映されていたテレビ番組ダラス』への出演依頼を受ける。この番組は13年間に渡って放送される人気番組となり、60代にして人気スターに返り咲く。また、この番組の撮影と平行し、アメリカイギリスの各地でコンサートを行った。80歳を過ぎてもなおミュージカルの舞台に立ち続け、生涯に渡ってショウビジネスに携わった。
生い立ち

アメリカ合衆国イリノイ州ギレスピーにて、海軍から炭鉱夫となったホーマー・キールとその妻グレイス・マーガレット(旧姓オスターカンプ)のもとに生まれた[2] [1]。兄にはフレデリック・ウィリアム・キールがいた。非常に困窮しており、教師は度々キールに昼食を与えた。

1930年、父が亡くなり、母は家族を連れてカリフォルニア州に転居し、キールは17歳でフォールブルック高校を卒業した。様々な雑用の仕事を経験し、ダグラス・エアクラフトの出張営業の職に就いた。
経歴

20歳の頃、女性家主のマム・ライダーがキールの歌声を聴き、ヴォーカル・レッスンを受けることを勧めた。キールの尊敬する歌手の1人はバリトンのローレンス・ティベットであった[4]。のちに自分の声がバッソ・カンタンテであると知り落胆したと語った。1941年夏、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルオラトリオサウル』に預言者サムエル役で出演し、バス・バリトンのジョージ・ロンドンとのデュエットで初めて人前で歌った。

1945年の短期間、ロジャース&ハマースタインによるブロードウェイのヒット・ミュージカル『回転木馬』で主役のビリー役を演じるジョン・レイトの代役を務め、同じくロジャース&ハマースタインによる『オクラホマ!』に出演することとなった[2]。『オクラホマ!』出演中、同じ日に両作品の主演を演じるというブロードウェイでも稀にみる偉業を達成した。1947年、キールが出演する『オクラホマ!』はロンドンで巡業し、戦後初めてロンドンで巡業した初めてのアメリカ製ミュージカルとなった[2]。1947年4月30日、ドゥルーリー・レーン劇場において、のちの女王エリザベス2世も出席した満員の観客によるアンコールは14回にも及んだ。

1948年、イングランドのエルストリーにあるブリティッシュ・ライオン・フィルムズの『The Small Voice』で映画デビューした[1][2]。カントリー・コテージで劇作家とその妻を人質にする脱獄囚を演じた[5]。ブロードウェイでは他に『Saratoga』、『No Strings』、『Ambassador』などに出演した。1954年、セントルイスのザ・ミューニーで『掠奪された七人の花嫁』のアダム役、1958年、『南太平洋』のエミール・デ・ベック役、2000年、『ホワイト・クリスマス』のウェイヴァリー将軍役を演じた。
MGMエスター・ウィリアムズとハワード・キール

1949年、キールは映画スタジオMGMと契約するためロンドンのウェスト・エンドからハリウッドに転居した。1950年、アーヴィング・バーリンの『アニーよ銃をとれ』のフランク・バトラー役で映画デビューし、ベティ・ハットンと共演した[2]。この映画は大ヒットし、キールはスター俳優となった[6]

1950年、MGMは『Pagan Love Song』を制作し、キールはエスター・ウィリアムズの相手役を演じてヒットした。ただしウィリアムズ主演の映画の多くは大がかりで費用がかかるためあまり利益を生まなかった[6]。1951年、コメディ映画『Three Guys Named Mike』でヴァン・ジョンソンジェーン・ワイマンと共演し、3作品連続ヒットとなった。

1951年、『ショウ・ボート』に出演し、キャスリン・グレイソンエヴァ・ガードナーの相手役として主演した[2]。1952年、『Texas Carnival』で再びウィリアムズと共演した。1952年、フレッド・マクマレイドロシー・マクガイアと共演したコメディ映画『Callaway Went Thataway』がキールのMGM映画において初の失敗作となった[6]。1952年、ヒット・ミュージカル『Roberta』を基にした映画『Lovely to Look At』で再びグレイソンと共演したが、赤字となった[6]

1953年、MGMは『望みなき捜索(英語版)』でキールを冒険映画に出演させてみたが評価は低く、続くコメディ映画『Fast Company』でも同様であった。ガードナーおよびロバート・テイラーと共演した西部劇『荒原の疾走(英語版)』はこれらよりもヒットした。


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