ハワイ併合
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最後のハワイ王で「アロハ・オエ」の作詞・作曲をおこなったことでも知られる女王リリウオカラニ

ハワイ併合(ハワイへいごう)または米布併合(べいふへいごう、英語: United States Annexation of Hawaii)は、1898年アメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国(布哇共和国)の併合である。本項では、アメリカ合衆国がハワイを併合するまでの経過とその影響について説明する。

1993年にアメリカ合衆国議会によって発表された謝罪決議(英語版)により、1893年にアメリカ軍が指導したクーデターによるハワイ王国の崩壊が違法行為として認められた[1]。現在、ハワイ独立運動の提唱者はアメリカ合衆国のハワイ諸島の統治は不法な軍事占領と唱える[2]
前史
ハワイ王国の政策カウイケアオウリ(カメハメハ3世

ハワイ王国は、1839年イギリスマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法(英語版)を公布して立憲君主政を成立させた。

1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年アメリカジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認した。しかし、ジェームス・クック以降の18世紀後半から交流の歴史があったイギリスの賛同が得られず、カウイケアオウリ(カメハメハ3世)がイギリス領事と交渉を行うが決裂した。この決裂を受けて、メキシコ沿岸の軍艦を統括していたイギリス海軍のジョージ・ポーレットが、軍艦を率いて1843年2月にホノルルに入り、威圧的な状況下でカメハメハ3世との会談を強行し、会談後にポーレットによる臨時政府が成立させた。この臨時政府によりハワイ政庁にはイギリスの国旗(ユニオンジャック)が揚げられたが、アメリカ政府による抗議と間接的な圧力に加えてフランス政府の動きから臨時政府は短命に終わり、同年7月にハワイ王国に主権が戻った。その後に宗教問題など英米仏からの干渉を解決し、ヴィクトリア女王イギリスルイ・フィリップフランス王国の承認を得る。

しかし、欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた[注釈 1]1845年には基本法により行政府として国王摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。1852年の新しいハワイ王国憲法(英語版)では、アメリカでリンカーン奴隷解放宣言を発する以前の段階で奴隷禁止条項を盛りこむなど、進歩的な内容を含んでいた[4]

こうした欧米化は、従来のアフプアアを軸とした土地概念にもおよび、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された[5]が、1850年にクレアナ法(英語版)が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。

いっぽうアメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された[6]。なお、この間カリフォルニアが1850年にへの昇格を果たしている。アレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世

カウイケアオウリの甥のアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制するとともに[6]1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリー(英語版)をはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた[7]。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている[8]。しかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。
アメリカへの傾斜と抵抗ロト・カメハメハ(カメハメハ5世

王権復古と「異教復活」を掲げた新王ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)は、1864年8月、新しいハワイ王国憲法(英語版)を公布した[9]。歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカ合衆国[注釈 2]は、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた[11]

この間、かつての捕鯨業は衰退に向かい、製糖業が発展に向かった[6]。特に1860年代は、南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土に代わってハワイ諸島においてサトウキビ栽培が大いに拡大した時期であった。しかし、一方で白人が持ち込んだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系移民が多数ハワイに流入した[12]1871年(明治4年)8月には日本との間に日布修好通商条約が締結されている。初めて選挙で選ばれた国王ルナリロ世界を周遊し、ハワイ王室と日本の皇室との縁組を申し出たハワイ王カラカウア

1872年、次の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが急死した。王位の決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となって、翌1873年1月、即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。アメリカとの間に互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされたが、ルナリロが肺結核アルコール依存症によって没したため、王位は再び議会に委ねられた。候補者のひとりが故カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホの王妃エマであり、もうひとりは、ハワイを統一したカメハメハ1世(大王)の有力な助言者だった大宮司ケイアウェアヘウル(英語版)の子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアであった。エマ王妃とカラカウアが「国王選挙」で争った結果、カラカウアが当選、1874年2月13日に即位した[13][注釈 3]

カラカウアは、王位を継承してすぐに自分の後継者としてのレレイオホクを指名して国王選挙の前例が繰り返さないよう手をうち[注釈 4]、1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約(英語版)を締結した。


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