ハワイにおける日本人移民
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ハワイの製糖工場で働く人びと(1910年頃)手彩色絵葉書ヒロ湾明治時代

ハワイにおける日本人移民(ハワイにおけるにほんじんいみん、英語:Japanese settlement in Hawaii)とは、1868年以降、労働者として日本からハワイ王国1893年-1897年ハワイ共和国1898年ハワイ併合後はアメリカ合衆国ハワイ準州)へ移住していった人びとを指す。1900年までの国や民間企業の斡旋によりやって来た移民を契約移民、以降1908年までの移民を自由移民と呼称する[1]

ハワイにおける移民は、急増するサトウキビ農園(英語版)や製糖工場で働く労働者を確保するため[2]、1830年頃より始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた[3]。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている[1]

移民の多くは契約期間満了後もハワイに定着し、日系アメリカ人としてハワイ社会の基礎を作り上げていった[4]
背景中国人排斥法
(1882年アメリカ)

19世紀初頭、ハワイ王国において摂政カアフマヌが政治的実権を握ると、キリスト教を中心とした欧米文化を取り入れようとする動きが活発化し、彼女に取り入った白人たちが発言力を増すようになる。貿易負債削減のため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが1835年より開始された[2]

1850年、外国人による土地私有が認められるようになると、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長した。その後、アメリカ合衆国内において南北戦争が勃発するとこの動きはさらに加速、1876年の関税撤廃に至り、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となった[2][† 1]

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、1830年代より国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、1852年、3年間という契約で、中国より最初の契約労働者がハワイへ来島した。以降も中国より多数の労働移民がやってきたが[† 2]、中国人らは定着率が悪く、契約終了後、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなったことから、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになる。

日本もその対象の一国として交渉が持たれた。1898年、ハワイがアメリカに併合されると、アメリカの中国人排斥法が適用され、中国人の移住が事実上不可能となった。
来島の流れ
元年者

1860年(万延元年)、日本の遣米使節団がハワイに寄港した際、カメハメハ4世は労働者供給を請願する親書を信託したが、日本は明治維新へと向かう混迷期にあり、積極的な対応がなされずにいた。

カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した[5]

しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(慶応4年/明治元年)5月17日(旧暦4月25日)[6]、サイオト号で153名[† 3]の日本人を、無許可でホノルルへ送り出した。こうして送られた初の日本人労働者は、明治初年の元年者(がんねんもの)と呼ばれた。

153人のうち、少なくとも男性50人、女性6人は、「契約と実際の状況が違う」と年季明けを待たずに1870年(明治2年)に帰国した[7]。一方で、元年者の中にはリーダーの牧野富三郎(宮城県石巻市出身)、最年少の石村市五郎(13歳)、マウイ島で102歳の生涯を終えた石井千太郎(岡山県)、ハワイ人女性と結婚してワイピオ渓谷に住んで子孫を残した佐藤徳次郎(東京京橋)など、後の日系移民の語り草になった人たちがいた[8]

日本側は自国民を奪われたとして、1869年(明治2年)に上野景範と三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、契約内容が異なるとして40名が即時帰国し、残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた[5]。この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年(明治4年)8月、日布修好通商条約が締結された。
契約移民『明治拾八年に於ける布哇砂糖耕地の情景』
Joseph Dwight Strong、1885年

1886年(明治19年)1月28日、日布移民条約が結ばれ[9]、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、政府の斡旋した移民は官約移民と呼ばれた。1894年に民間に委託されるまで、約29,000人がハワイへ渡った[1]

1884年、最初の移民600人の公募に対し、28,000人の応募があり[10]、946名(異説あり)[† 4]が「シティ・オブ・トウキョウ」に乗り込み、ハワイへと渡った。この時期の移民者には、江戸時代に幕府通訳官として活躍しハワイの移民監督官を8年務めた後、商会を設立して菊正宗を輸出して財産を築き、社会事業に尽力した木村斉次ワイアケア耕作地の監督もした星名謙一郎、牧師の岡部次郎、勉学ののちにロサンゼルスに渡った実業家の甲斐政次郎[11]などがいる。

官約移民は「3年間で400万円稼げる」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われたが、その実態は人身売買に類似し、半ば奴隷に近かった。労働は過酷で、現場監督(ルナ)ので殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額であった[12]。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律(通称、主人と召使法)に起因するところが大きい[13]。仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかったのである。

官約移民制度における具体的な交渉は、後に「移民帝王」とも揶揄される[13]在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンに一任されていた。井上馨と親交を持ち、その関係から三井物産会社を用いて日本各地から労働者を集め、その仲介料を日本・ハワイの双方から徴収するなど、莫大な稼ぎを得ていた[13]。アーウィンとの仲介料の折り合いが合わず、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止された。
民間移民会社

1894年の官約移民の廃止と同時期に、弁護士星亨が日本政府に働きかけ、民間移民会社が認可されることとなり、以後は日本の民間会社を通した斡旋(私約移民)が行われるようになった[14][15]


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