ハロルド2世_(イングランド王)
[Wikipedia|▼Menu]

ハロルド2世
(ハロルド・ゴドウィンソン)
Harold II
(Harold Godwinson)

バイユーのタペストリーに描かれた
ハロルド・ゴドウィンソン
イングランド人の王
在位期間
1066年1月5日?10月14日
戴冠1066年1月
先代エドワード証聖王
次代ウィリアム征服王
イースト・アングリア伯(英語版)
在位期間
1052年 - 1053年
先代エルフガール(英語版)
次代エルフガール(英語版)
ウェセックス伯
在位期間
1053年 - 1066年
先代ゴドウィン
次代王位に併合

出生1022年
イングランド
ウェセックス
死亡1066年10月14日
イングランド
サセックス地方 センラック・ヒル(英語版)
埋葬サセックス地方
ウォルサム修道院(英語版)
または
ボシャム(英語版)
王室ゴドウィン家(英語版)
父親ゴドウィン
母親ギーサ・トルケルズドッティル (英語版)
配偶者

エディス(英語版)

エディス・オブ・マーシア(英語版)

子女


ゴドウィン

エドマンド(英語版)

マグヌス(英語版)

グンヒルド(英語版)

ギータ

ハロルド(英語版)

ウルフ(英語版)

テンプレートを表示
バイユーのタペストリーに描かれたハロルド2世バイユーのタペストリーに描かれた、ヘイスティングズの戦いにおけるハロルド2世の戦死の模様。そのうちのどの戦士がハロルド2世であるかは確認されていない。

ハロルド・ゴドウィンソン (1022年ごろー1066年10月14日)、またはハロルド2世とは、最後のアングロサクソン人イングランド王である。ハロルドは1066年1月6日に即位し、同年10月14日にヘイスティングズの戦いで戦死するまで在位した。彼の戦死により、アングロサクソン人によるイングランド統治(英語版)は終焉を迎えた。

ハロルド・ゴドウィンソンはクヌート大王と結びつきが強かったとされるアングロサクソン貴族ゴドウィン家(英語版)の出身である。彼は父であるウェセックス伯ゴドウィンの死後、王国で有数の有力貴族として手腕を振るった、そして1066年1月5日、彼の義弟でもあるイングランド王エドワード懺悔王が後継者なしに崩御したことを受け、賢人会議の取り決めにより彼はハロルド2世としてイングランド王に即位した。おそらくハロルドはウエストミンスター寺院で戴冠式を行った初のイングランド王であるとされている。そして同年9月後半、イングランド王位継承権を主張してイングランドに侵攻しヨークに拠点を構えていたノルウェー王ハーラル・シグルズソン率いるノース人ヴァイキングをスタンフォード・ブリッジの戦いで撃滅し、その2週間後に返す刀で、同様の理由でイングランドに侵攻していたノルマンディー公ギヨーム2世の軍勢をヘイスティングズで迎え撃った。しかしこの戦いでハロルドは敗れ、戦死した。
ゴドウィン家の背景

ハロルドは、イングランドで指折りの大貴族ウェセックス伯ゴドウィンとその妻ギーサ・トルケルズドッティル (英語版)の息子として誕生した。ギーサの兄弟であるウルフ伯(英語版)はデンマーク王スヴェン1世の娘[1]でかつクヌート大王の妹であるエストリズ・スヴェンスダッタと結婚している。ウルフ伯とエストリズの息子は1047年にスヴェン2世としてデンマーク王に即位することとなる[2]。ハロルドの父親ゴドウィンの父は、ウルフノス・キルド(英語版)という名のサセックス出身の従士であったとされる。ゴドウィンは元々はエドマンド剛勇王の家臣として活躍していたとされるが、その後はクヌート王の支援に回り、1018年にはクヌート王によってウェセックス伯に任じられた[3]。その後、クヌート王の治世中においてゴドウィンはウェセックス伯の爵位を保持し続け、ゴドウィンを含む2人の貴族のみが自身の爵位に在位し続けたという[4]。1035年のクヌート王の死後、ゴドウィンは彼の跡継ぎと目されていたクヌートの長男ハロルド兎足王ではなくハーデクヌーズの支援に回ったものの、のちにハーザクヌートの側に鞍替えした[5]。1040年にハロルド兎足王が亡くなったのち、ハーザクヌートはイングランド王位を継承したが、ゴドウィンは1036年にハーザクヌートの兄弟であるアルフレッド・アシリングの暗殺に加担していたことから、一時的に自身の立場が危ういものとなった。しかしゴドウィンはハーザクヌート王に忠誠を誓い、莫大な贈与品を王に差し出したことから、ハーザクヌート王の寵愛を受けることとなった[6]。1042年にハーザクヌート王が崩御した。彼の死ののち、ゴドウィンはノルマンディーに滞在していた王族エドワードをイングランド王に推戴させ、キングメーカーとしての役割を果たした。1045年にはエドワード懺悔王の元にゴドウィンの娘エディスが嫁ぎ、ゴドウィンは王国で権勢を誇る大貴族となった[7]。ゴドウィンとギーサ夫婦は6人の息子と3人の娘を儲け、ゴドウィン家を繁栄に導いた。彼らの子供たちの誕生日については記録が残っていない[8]。ハロルド・ゴドウィンソンはゴドウィンの次男として誕生し、1045年ごろに25歳であったとの記録があることからおそらく1020年ごろの生まれであったとされている[9]
有力貴族への道

ゴドウィンの娘エディスは1045年1月23日にイングランド王エドワード懺悔王と結婚した。そしてほぼ同時期にハロルドはイースト・アングリア伯(英語版)に就任した。1044年ごろに作成されたと思われる命令書に、ハロルドは「伯爵」として連署人として名を連ねており、1045年までには公式文書に頻繁に伯爵として登場するようになっている。彼がイースト・アングリア伯に任命された理由の一つとして、ノルウェー王マグヌス1世のイングランド侵略という脅威に対抗するためであったとする説が挙げられている。1045年にマグヌス王の侵略に備えてイースト・アングリア伯領からサンドウィッチ地方に派遣された艦隊をハロルド自身が率いていた可能性も考えられている[10]。また1043年にはハロルドの兄スヴェン・ゴドウィンソンもまたとある地域の伯爵に任じられており[11]、この頃にはハロルドはケンブリッチシャー、サッフォーク、並びにエセックス地域の女性相続人であったエディス(en:Edith the Fair) ( 前々イースト・アングリア伯のっぽのトルケルの娘 ) との関係が始まったとされる。ハロルドとエディスの関係はカトリック教会の承認に従った結婚ではなく、 en:More danico と呼ばれるデーン人の慣習に従った婚姻スタイルであったとされ、当時のイングランド民衆に広く受け入れられていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:109 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef