ハロルド・ロイド
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ハロルド・ロイド
Harold Lloyd
『ロイドの牛乳屋』(1936年)より
本名ハロルド・クレイトン・ロイド
生年月日 (1893-04-20) 1893年4月20日
没年月日 (1971-03-08) 1971年3月8日(77歳没)
出生地 アメリカ合衆国 ネブラスカ州
死没地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ビバリーヒルズ
ジャンルコメディアン
配偶者ミルドレッド・デイヴィス
主な作品
ロイドの要心無用』、『猛進ロイド』、『ロイドの人気者』
受賞
アカデミー特別賞/1952
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ハロルド・クレイトン・ロイド・シニア(: Harold Clayton Lloyd, Sr.、1893年4月20日 - 1971年3月8日)は、アメリカ合衆国コメディアン1920年代バスター・キートンチャールズ・チャップリンと並び活躍したサイレント映画のスーパースターの一人である。
プロフィール

子役エキストラを経て、約200本近くの映画に出演。多くの作品にカンカン帽セルロイドの丸ぶち眼鏡という独特のスタイルで登場した。都会的な一好青年によるドタバタ喜劇というのが特徴で、気弱な主人公が、いざ恋する女性のために一念発起、大奮闘する姿がよく描かれた。この丸ぶち眼鏡を通称ロイド眼鏡というのは、彼にちなんでいる。
デビューまで

1910年、父親が事業で何度か失敗した後、ロイドの両親は離婚し、父親は息子と一緒にカリフォルニア州サンディエゴに引っ越した[1]。ロイドは子供の頃に劇場で演技者として働いた[2]
デビュー『ロイドの水兵』より(1921年)

1912年頃にエジソンフィルムカンパニーの1巻物の喜劇映画に出演を始めた[1]1913年の『The Old Monk's Tale』[3]が既知の最初の出演作で、クレジットされていないアメリカ・インディアンを演じた。

その後、ロサンゼルスキーストン・スタジオの映画に出演すると共に、ユニバーサル・スタジオにエキストラとして雇われてすぐプロデューサーのハル・ローチ(英語版)と友人になり、彼の下で1915年、「ウィリーワーク(Willie Work)[4]」、続いて「ロンサムリューク(Lonesome Luke)[5]」(まだ眼鏡をかけておらず、チャップリンが創作したキャラクター「ザ・トランプ」[注釈 1]に酷似)という不恰好で狡猾なキャラクターで売り出した。「ロンサムリューク」スタイルのロイド、およびビーブ・ダニエルズ(右上)とスナップ・ポラード(左下) 1917年

ビーブ・ダニエルズ、スナップ・ポラード(英語版)という共演者を得て、1917年、『ロイドの野球(英語版)』で初めてグラスキャラクター「ザ・ボーイ」[注釈 2]になった。

向こう見ずなキャラクターに変わりはないが、1919年までにアイデアに富む目まぐるしいドタバタを展開した。ただ荒々しいだけではなく、感情的にも共感できることがほしいということで、その作品も徐々に観客の心を掴むよう工夫された。驚いて「髪が総毛立つ」というギャグを、風を顔に当てて表現するなど、漫画的な映像表現を積極的に採り入れたりもした。
人気『要心無用』での危険なスタント

1919年、相手役を可憐なミルドレッド・デイヴィス1923年にロイドと結婚)に代え、短編から中長編へと乗り出す。『俺がやる』(1921)
後ろの女性が後に妻となるミルドレッド・デイヴィス

1919年8月24日に、ロスアンジェルスの写真撮影所でスチル写真撮影時に、爆発事故により右手の親指と人差し指を失くし、それ以降は義指着用となった[6]。『要心無用(1923年)』の有名なビルディング・アクションも、義指をつけての演技である。

その後、傑作『豪勇ロイド(1922年)』や、『猛進ロイド(1924年)』を発表。1925年には『ロイドの人気者』が興行成績において同年のチャップリンの『黄金狂時代』を上回った[7]

相手役も『ロイドの巨人征服(1923年)』より名花ジョビナ・ラルストン(英語版)に代わり、1年に1本の割合で長編作品を作り続けた。

尚、日本でも、明朗快活でモダンなロイド喜劇は一世を風靡し、巨匠・小津安二郎監督などにも影響を与えている。小津作品の『大学は出たけれど』や『和製喧嘩友達』のセットにロイド作品のポスターが使用されている。
トーキー時代妻ミルドレッドと(1925年)

サイレント時代のスターが、徐々にトーキーシステムに乗りきれず(声が悪かったり過剰演技)凋落していくそのなかで、アクションが売りだったロイドも、また苦境を迎えていた。

人気は以前のように持続できなかったが、主演する映画はそれなりにヒットしている。1938年の『ロイドのエヂプト博士』以降長らくのブランクの後1947年の『ハロルド・ディドルボックの罪』(『ロイドの人気者』の続編)に主演したのを最後に引退した(ただしこの作品はいくつかのシーンを撮り直し再編集して1950年にタイトルを『Mad Wednesday(奇妙な水曜日)』に変更して再公開された)。

また彼は商才に長けていたため、自分のフィルムを後々まで手許に残し、再び脚光を浴びる機会を窺っていた。彼の死後、アメリカのタイムライフ社がその権利の一部を買い取り、『ロイドの喜劇の世界(英語版)』と題しテレビ放映された。日本では1970年代の後半に、「ロイド小劇場」(NHK)としてフランキー堺のナレーション入りで放送している[注釈 3]
晩年ハリウッドの栄誉標

1952年、ロイドはコメディアンの巨匠、およびよき市民としてアカデミー名誉賞を授与された。

晩年は、趣味でもある写真工学の研究に励み、3Dで撮ったストリッパーや、マリリン・モンローの写真が遺されている(孫娘スザンヌ・ロイドが10万点の中から厳選した写真集が2004年に出版された)。

1971年3月8日、前立腺癌により77歳で死去。

2008年、ロイド全盛期の傑作がDVD-BOXとしてリリースされ、リマスターされた良質な映像で観られるようになった。
主な作品『豪勇ロイド』のポスター広告 (1919年)

(英語版のHarold Lloyd filmographyも参照。)
1910年代

『海辺の恋人たち
(英語版)』(1915年)[8][9]

『ロイドの野球(英語版)』(1917年)[10][11]

『ロイドのコック/ロイドの浮気者(英語版)』(1917年)[12][13]

『ロイドの二挺拳銃(英語版)』(1918年)[14][15]

『ロイドの猛獣結婚(英語版)』(1918年)[16][17]


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