ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ
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ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ
別名ザ・ チャルマネーズ
ザ・ブルー・ノーツ
出身地
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
ジャンルR&Bソウルディスコ
活動期間1954年 - 1996年
レーベルフィラデルフィア・インターナショナル・レコードABCレコード、Source、MCAレコード、Philly World

旧メンバーハロルド・メルヴィン
バーナード・ウィリアムス
ルーズヴェルト・ブロディー
ジェシー・ギルズJr.
フランクリン・ピーカー
ジョン・アトキンス
テディ・ペンダーグラス
ローレンス・ブラウン
バーナード・ウィルソン
ロイド・パークス
ジェリー・カミングス
シャロン・ペイジ
デヴィッド・エボ
ドゥワイト・ジョンソン
ウィリアム・スプレイトリー
ジル・サンダース

ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ(Harold Melvin & the Blue Notes)は、アメリカ合衆国ボーカル・グループフィラデルフィア(フィリー)・ソウルを代表するグループであり、そのレパートリーには、ソウルR&Bドゥー・ワップに、ディスコ・ミュージックも含まれる。

1950年代初頭にペンシルベニア州フィラデルフィアでハロルド・メルヴィンを中心として結成されたザ・ チャルマネーズ(The Charlemagnes)を前身とし、1972年から76年にかけて、フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルからリリースされた数々のヒット曲によって今に記憶されるが、グループ自体はメルヴィンの死去(1997年)まで存続した。

創立者であり、初代リード・シンガーでもあったメルヴィンの名前がグループ名には冠されてはいるが、最も著名なメンバーは、全盛期のフィラデルフィア・インターナショナル時代にリード・シンガーを務めたテディ・ペンダーグラスである。
歴史
初期

1954年、かつてザ・チャルマネーズの名前で知られたグループが、ザ・ブルー・ノーツと改名される。当時のメンバーは、リード・シンガーのハロルド・メルヴィン(1939 - 1997)に、バーナード・ウィリアムス、ルーズヴェルト・ブロディー、ジェシー・ギルズJr.、フランクリン・ピーカーの5名。

ザ・ブルー・ノーツは、1960年代まで数多くのレーベルからレコードをリリースしたが、1960年の「My Hero」、65年の「Get Out (and Let Me Cry)」のスマッシュ・ヒットの他は、大きな成功を得ることは出来なかった。この間ウィリアムスがグループを去り、ジョン・アトキンスが新しいリード・シンガーとして加入した。

1970年、バックバンドに元ザ・キャデラックのテディ・ペンダーグラスがドラマーとして加入。同年アトキンスの脱退に伴い、ペンダーグラスが新しいリード・シンガーとして迎えられた。
フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルでの成功

1972年名プロデューサー、ギャンブル&ハフ率いるフィラデルフィア・インターナショナル・レーベルと契約し、グループ名もハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツとなる。メンバーもメルヴィンとテンダーグラス以外は一新され、バーナード・ウィルソン、ローレンス・ブラウン、ロイド・パークスとの5人体制となった。以後76年までの5年間に、ミリオンセラーを含む数多くのヒットシングル・アルバムが生み出されることとなる。

ブルー・ノーツの最も重要で、且つ商業的な成功も収めた作品には、例えば1972年の「二人の絆(If You Don't Know Me By Now)」 (ビルボードR&Bチャート1位・Hot100チャート3位)、 「I Miss You」(同7位・58位)、73年の「愛の幻想(The Love I Lost)」(同1位・7位)といったラブソングや、ともに75年にリリースされた社会派ソング、「Wake Up Everybody」(同1位・12位)と「Bad Luck」(同4位・15位)などがある。特に「Bad Luck」はビルボードのHot Dance Club Songs Chartでも、11週連続で1位を獲得するなど、ロングラン作品となった。同じ75年にリリースされ、彼らにとって4枚目のR&Bチャート1位シングルとなった「Hope That We Can Be Together Soon」は、前年加入した女性ヴォーカリスト、シャロン・ペイジをフィーチャーしたものである。

1975年のアルバム『Wake Up Everybody』に収録されていた「Don't Leave Me This Way」は、テルマ・ヒューストンのカバー・ヴァージョンが1977年にビルボードHot100チャートで1位となり[1]、その後ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツのオリジナル・ヴァージョンもシングルとしてリリースされ、ディスコ・ミュージック全盛期における定番の曲の一つとなった。また、「Wake Up Everybody」のアルバム・ヴァージョンはアメリカではシングル・カットされなかったが、77年にイギリスで発売されるや同国のチャートで5位に入り、結局アメリカでも2年後に12インチシングルとしてリリースされた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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