ハロルド・ベインズ
[Wikipedia|▼Menu]

ハロルド・ベインズ
Harold Baines
2011年8月11日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地メリーランド州イーストン
生年月日 (1959-03-15) 1959年3月15日(61歳)
身長
体重6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手指名打者
プロ入り1977年 ドラフト1巡目
初出場1980年4月10日
最終出場2001年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


シカゴ・ホワイトソックス (1980 - 1989)

テキサス・レンジャーズ (1989 - 1990)

オークランド・アスレチックス (1990 - 1992)

ボルチモア・オリオールズ (1993 - 1995)

シカゴ・ホワイトソックス (1996 - 1997)

ボルチモア・オリオールズ (1997 - 1999)

クリーブランド・インディアンス (1999)

ボルチモア・オリオールズ (2000)

シカゴ・ホワイトソックス (2000 - 2001)

コーチ歴


シカゴ・ホワイトソックス (2004 - 2015)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年2019年
得票率75.00%
選出方法ベテランズ委員会
この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ハロルド・ダグラス・ベインズ(Harold Douglas Baines , 1959年3月15日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州イーストン出身の元プロ野球選手(右翼手及び指名打者)。左投左打。

ニックネームは「静かな男」。目次

1 経歴

1.1 少年時代からMLB入団まで

1.2 シカゴ・ホワイトソックス時代(1980年-1989年)

1.3 3球団所属時代(1989年-1995年)

1.4 ホワイトソックス復帰(1996年)

1.5 オリオールズ・インディアンス所属時代(1997年-2000年)

1.6 2度目のホワイトソックス復帰・引退まで(2000年-2001年)

1.7 引退後


2 選手としての特徴

3 詳細情報

3.1 年度別打撃成績

3.2 年度別守備成績

3.3 表彰

3.4 記録

3.5 背番号


4 脚注

5 関連項目

6 外部リンク

経歴
少年時代からMLB入団まで

ベインズは1959年3月15日にメリーランド州イーストンに生まれる。その後地元で育ち、セントミカエル高校在学時には打率.532の記録をたたき出し、全米高校野球で注目された。

高校を卒業する1977年ドラフト会議で、シカゴ・ホワイトソックスから全体1位で指名され入団。当時ホワイトソックスのオーナーだったビル・ベックは、12歳当時のベインズがリトルリーグでプレイしているのを見て、少年時代より注目していたという。
シカゴ・ホワイトソックス時代(1980年-1989年)

1980年4月10日の開幕戦にてメジャーデビューを果たし、弱冠20歳ですぐにレギュラーに定着。

1982年には161試合に出場して25本塁打、105打点を記録。

1983年は29本塁打、99打点でチームの地区優勝に貢献。1984年には自己最多の29本塁打をマーク。長打率.541はア・リーグ1位であった。

1984年5月8日のコミスキー・パークで行われた対ミルウォーキー・ブルワーズ戦は延長戦に入り、午前1時を過ぎたところでアメリカンリーグの規定により、サスペンデッドゲームとなった。翌9日に正規の試合前に続行試合が行われ、8時間6分に及ぶMLB史上最長時間試合となったが、延長25回裏にチャック・ポーターから中堅方向へサヨナラ本塁打を放つ[1]。この時のバットはアメリカ野球殿堂入りしている。

1985年は打率.309、本塁打22、打点113(自己最高)で初のオールスター出場を果たす。

1986年頃よりの故障に悩まされ、1987年以後はほぼ指名打者(DH)での起用が中心となる。すでにこの時点で、オーナーのジェリー・ラインズドルフがベインズの背番号『3』を永久欠番に指定することを確約しており、1989年シーズン途中に2対3の交換トレードでベインズはテキサス・レンジャーズへ移籍する[2]が、この移籍退団をもってベインズの背番号『3』を永久欠番に指定している。 ベインズのホワイトソックス在籍時の背番号「3」。
シカゴ・ホワイトソックスの永久欠番1989年指定。
3球団所属時代(1989年-1995年)

レンジャーズに移籍後、今度は1990年のシーズン途中に2選手との交換でオークランド・アスレチックスにいわゆるフラッグ・トレードで移籍。この年アスレチックスはリーグ優勝を果たしており、自身初のワールドシリーズ出場を果たすが、相手となったシンシナティ・レッズに1勝もできず4連敗で敗退してしまった。

1991年は、打率.295、20本塁打、90打点の活躍で4年ぶりにオールスターに出場し、1992年は、アスレチックスの地区優勝に貢献。

1993年にマイナー2投手との交換で地元のボルチモア・オリオールズに移籍し、同年は打率.313、翌1994年は.294、1995年は.299を記録した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:84 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef