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ハロルド・ピンター
誕生1930年10月10日
イギリス ロンドン
死没2008年12月24日(満78歳)
イギリス ロンドン
職業劇作家・詩人
国籍 イギリス
活動期間1947年 -2008年
主な受賞歴オーストリア国家賞(1973年)
ローレンス・オリヴィエ賞(1996年)
フランツ・カフカ賞(2005年)
ノーベル文学賞(2005年)
ウィキポータル 文学
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ノーベル賞受賞者
受賞年:2005年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:劇作によって、日常の対話の中に潜在する危機を晒し出し、抑圧された密室に突破口を開いたこと
ハロルド・ピンター(Harold Pinter, CH CBE, 1930年10月10日 - 2008年12月24日)は、イギリスの劇作家・詩人。男性。映画の脚本やラジオの台本も手掛けた。2005年にノーベル文学賞を受賞。
夫人は作家アントニア・フレーザー(貴族階級出身の歴史家)。最初の夫人は、ピンターの初期から中期にかけての作品に多く出演した女優のヴィヴィアン・マーチャント(英語版)(1956年に結婚し、1980年に離婚した)。 1930年10月10日、ロンドン東部のハックニーで、ユダヤ系ポルトガル人の労働者階級の両親のもとに生まれる。父は仕立て職人であった。若き日に愛読した作家として、ドストエフスキー、ジェイムズ・ジョイス、ロレンス、ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフ、フランツ・カフカ、ヘンリー・ミラー、サミュエル・ベケット、ランボー、イェイツなどが挙げられている。詩作にふける他方、映画好きのシネフィル少年でもあり、同時代の映画を浴びるように鑑賞。とりわけルイス・ブニュエルなどのシュールレアリスム映画に強い衝撃を受ける。1948年、当時としては珍しい良心的な理由から徴兵を忌避して罰金刑を科される。地元のグラマースクールのジョーゼフ・ブリアリーという教師の影響で演劇に興味を持ち、卒業後は演劇学校に進学。1951年にはプロの舞台俳優になったものの、無名俳優としてくすぶることになる。俳優としての生活以外にも黙々と詩作や自伝的な小説の執筆に励んでいたおり、ブリストル大学の演劇科に通っていた幼なじみからの依頼で1957年に処女戯曲『部屋』を書くことになった。この作品がブリストル大学で上演されて好評を得た。これをきっかけにして、ピンターは劇作家としての道を歩み出す決意を固める。当初はその斬新な劇作手法が受け容れられず評論家たちからバッシングされたが、1960年に上演された『管理人』がようやく評価され、劇作家としての地位を確立。それ以後、演劇の世界のみならずテレビ、ラジオ、映画、エッセイなど幅広い分野に活動を広げていくことになった。2007年フランス政府よりレジオンドヌール勲章を受勲。 20世紀後半を代表する不条理演劇の大家と評され、説明的な台詞や行動の動機、さらには明快でリアリズム的な舞台設定を嫌い、観客はもちろん作中の登場人物に対しても状況が明示されぬまま物語が進行してゆく反=リアリズム的な戯曲を書いた。それらの作品群にあっては、現実と非現実、現在と過去、理性と狂気、論理と非論理、明晰と曖昧が縦横無尽に交錯してゆくなかで、個々の「キャラクターが一人歩き」をはじめ、物語は多様な解釈を受け容れることのできる長大な奥行きを獲得する。また、反=リアリズム的な傾向とともに、全体主義批判を中心とする政治的な題材の作品も数多く、後期の作品ではとくに顕著である。 アラン・エイクボーンがピンターの『バースデイ・パーティ』に俳優として出演した時の話によると、エイクボーンは配役について、「この人物はどこの出身で、どこに住んでいて、両親は誰なのかを、教えてくれませんか」とピンターに質問した。ピンターは「余計なことだ。とにかくやるんだ」とだけ言ったのだという。ピンターはこの発言を否定しているが、登場人物の設定を細かく決めることはしなかったことは認めている。作者自身にとっても、何者かわからない人物を「発見」して行くとピンターは表現している。 映画の脚本家としては、ハリウッドの赤狩りを逃れてイギリスにやってきた映画監督ジョゼフ・ロージーとの仕事が名高い。 徹底した反戦思想の持ち主であり、また、全体主義的な政治や社会のあり方を批判し続けた。公の立場からNATOによるユーゴスラビア空爆やアメリカ合衆国によるアフガニスタン空爆に抗議したり、ブッシュ政権のイラク侵攻をナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーに準えたこともあった。
経歴
作風・政治への関与