ハルハ
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ハルハ(2,168,141[1])
居住地域
言語
モンゴル語(ハルハ方言)
宗教
チベット仏教シャーマニズム
関連する民族
他のモンゴル系民族

ハルハ(モンゴル語:.mw-parser-output .font-mong{font-family:"Menk Hawang Tig","Menk Qagan Tig","Menk Garqag Tig","Menk Har_a Tig","Menk Scnin Tig","Oyun Gurban Ulus Tig","Oyun Qagan Tig","Oyun Garqag Tig","Oyun Har_a Tig","Oyun Scnin Tig","Oyun Agula Tig","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White","Mongol Usug","Mongolian White","MongolianScript","Code2000","Menksoft Qagan"}.mw-parser-output .font-mong-mnc,.mw-parser-output .font-mong:lang(mnc-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(dta-Mong),.mw-parser-output .font-mong:lang(sjo-Mong){font-family:"Abkai Xanyan","Abkai Xanyan LA","Abkai Xanyan VT","Abkai Xanyan XX","Abkai Xanyan SC","Abkai Buleku","Daicing White","Mongolian Baiti","Noto Sans Mongolian","Mongolian Universal White"}?????????? 転写:qalq-a, Khalkha, Халх, [χ??χ]、中国語:喀爾喀 K??rk?)は、近世モンゴルの一部族であり、現在のモンゴル国の多数派民族である。中国の内モンゴル自治区にもハルハの一部が住む。北元が滅んだ後の大順・大西・南明・清が競立期の中国地図では「喀爾喀部」「後元」「韃靼」など様々に記されている。15世紀の東アジア諸国と北方諸民族。
歴史
起源

ハルハの起源は、元朝の左翼五投下[2]であるジャライル部ムカリ国王家の所管にさかのぼり、その名称はハルハ川に由来する。1487年にモンゴルのバト・モンケ(Batu Mongke)がハーンの位に就いてダヤン・ハーン(Dayan Qaγan)と名乗ると、モンゴルを左翼と右翼の大きく2つに分け、さらに左翼をチャハル,ハルハ,ウリヤンハン、右翼をオルドス部トゥメトヨンシエブに分けた。この6つの大部族をトゥメン(万人隊)といい[3]、ハルハ部はハルハ・トゥメンとも呼ぶ。

[4]
五部ハルハと七旗ハルハ

ハルハ・トゥメンにはダヤン・ハーンの第5子アルジュボラトと第11子ゲレセンジェが婿に入り、その首長となった。

モンゴル宗家である左翼のチャハル部長ダライスン・ゴデン・ハーンと、右翼のトゥメト部長アルタン・ハーンとの間で争いが起きると、ハルハ部は二つに分かれてそれぞれにつくこととなる。1547年、アルジュボラトの配下部族はダライスン・ハーンに率いられて大興安嶺山脈の東に移住し、その5人の孫にちなんで、のちに五部ハルハ(タヴ・オトク・ハルハ)もしくは内ハルハと呼ばれる。ゲレセンジェの配下部族はアルタン・ハーンに附き、その7人の子にちなんで、のちに七旗ハルハ(ドロー・ホシューン・ハルハ)もしくは外ハルハと呼ばれる(ただし、「七旗」というはあくまで名称であり、実際には13部に分かれていた)。外ハルハは後に外モンゴルとなる。

[5]
七旗ハルハの左右翼

ダヤン・ハーンの死後、その母方の部族[6]であるウリャンカイが反乱を起こしたので、ウリヤンハン以外の左右翼トゥメンは1538年にウリヤンハンを討伐し、部族を解体した。東隣であった七旗ハルハはウリヤンハンの一部を吸収して牧地をハルハ川から西方に広げ、現在のモンゴル国中央部ヘンティー山脈からハンガイ山脈まで達することとなった。

このように、広大な領土を支配するようになった七旗ハルハは大きく2つに分かれることとなり、ゲレセンジェの長子アシハイの系統は右翼、ゲレセンジェの第3子ノーノホの系統と第5子アミンドラルの系統は左翼となった。

[7]
ハルハの3ハーン16世紀、ハルハ中央部にアバダイ・ハーンが作ったエルデネ・ゾー


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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