ハルツブルク戦線
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ナチ党代表団。1列目にヒムラー、レーム、ゲーリングの姿が見える。

ハルツブルク戦線(ハルツブルクせんせん、ドイツ語: Harzburger Front)は、ヴァイマル共和制下のドイツにおいて1931年に結成された、極右[1]・反民主的[2]政治同盟で、当時のドイツのメディア王アルフレート・フーゲンベルク率いるドイツ国家人民党 (DNVP) の他、アドルフ・ヒトラー率いるナチ党 (NSDAP)、鉄兜団、全国農村連盟および全ドイツ連盟が参加した。
イベントバート・ハルツブルク、1931年10月10日:フーゲンベルクとアイテル・フリードリッヒ熱狂的なナチ党支持者。

1931年10月11日、ブリューニング内閣に対する国民的反対運動を組織するため、ブラウンシュヴァイク自由州の温泉町バート・ハルツブルク(英語版)(Bad Harzburg)で開催された右派政治団体の代表者会議で設立された。首都ベルリンを含むプロイセン自由州ドイツ社会民主党が政権を握る左派勢力の拠点であり、ただでさえ厳格な集会許可手続きで許可を得るのは難しく、ドイツ共産党の暴力的な抗議行動も予想された。このため、開催地にはナチ党のディートリヒ・クラゲスが州内務大臣を務めるブラウンシュヴァイク自由州が選ばれた。開催に際して、現地の共産主義者は扇動と治安妨害の嫌疑で逮捕・起訴された。ハルツブルク市民の多くは、集会の経済効果もあって集会開催を支持していた。

参加した組織は1929年にも戦時賠償に関するヤング案への反対キャンペーンで共闘しており、反民主主義的右派はヒトラーを味方だと考えていた。世界恐慌の影響で1930年3月に社会民主党のヘルマン・ミュラー首相率いる政府が退陣するとドイツでは正常な議院内閣制が機能しなくなり、元陸軍参謀総長陸軍元帥として絶大な権威を誇ったパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の信任に頼る「大統領内閣」が政権を担当するようになった。ヒンデンブルクは中央党ハインリヒ・ブリューニングを首相に据え、国会の反発にはヴァイマル憲法第48条(英語版)に基づく大統領緊急令を連発して対応した。しかしブリューニングは危機を収束させることができず、1930年9月のドイツ国会選挙でナチ党の得票率は15.7%増の18.2%と大躍進した。一方の国家人民党は7.3%減の7.0%と凋落し、右派勢力の中でナチ党が頭1つ抜け出していた。このことからヒトラーはわざわざ他の右派勢力と共闘する必要はないと考えており、バート・ハルツブルク行きも渋々承知したものであった。ヒトラーはフーゲンベルクを利用するつもりはあっても、手を貸したり助けてやるつもりはなかった。

会合には国家人民党の他、ナチ党からは突撃隊(SA)幕僚長エルンスト・レーム親衛隊(SS)全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、国会議員団長ヘルマン・ゲーリングなど首脳陣が参加した。また、ホーエンツォレルン家からはヴィルヘルム2世の子息アイテル・フリードリヒアウグスト・ヴィルヘルムを迎え、名だたるプロイセン貴族の他、鉄兜団からは団長フランツ・ゼルテテオドール・デュスターベルクカップ一揆の首謀者ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ、元バルト防衛軍司令官リューディガー・フォン・デア・ゴルツ、元ヴァイマル共和国軍参謀総長ドイツ人民党の国会議員ハンス・フォン・ゼークト、全ドイツ連盟議長ハインリヒ・クラスが出席した。実業界からは鉄鋼王フリッツ・ティッセンの代理人も出席した。無党派ながらヤング案に抗議して前年にドイツ帝国銀行総裁を辞任し、ブリューニング内閣の経済・金融政策を激しく批判して人気を博していたヒャルマル・シャハト(実際には、首席代表として交渉にあたり、ヤング案を受け入れたのは他でもないシャハト本人であった)も参加した。一方で、招待された財界人や大企業の経営者らはほとんど欠席し、参加したのはルール鉱山のエルンスト・ブランディだけであった。

フーゲンベルクは、ハルツブルクでの会合を、自らの指導の下で右派勢力を糾合し、翌年の大統領選挙への右派統一候補擁立と、その候補への同意を取り付ける場とするつもりであった。


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