ハルク・ホーガン
2014年 "Fan Expo Canada" にて
署名
プロフィール
リングネームハルク・ホーガン
ハリウッド・ホーガン
ミスター・アメリカ
テリー "ザ・ハルク" ボールダー
スターリング・ゴールデン
ハルク・マシーン
スーパー・デストロイヤー
本名テリー・ユージーン・ボレア
ニックネームインクレディブル(Incredible)
インモータル(Immortal)
ハルクスター(Hulkster)
ハリウッド(Hollywood)
リアル・アメリカン(Real American)
超人
現代のネプチューン
身長201cm[1][2]
体重137kg(全盛時)[2]
誕生日 (1953-08-11) 1953年8月11日(70歳)
出身地 アメリカ合衆国
フロリダ州
ヒルズボロ郡タンパ
スポーツ歴パワーリフティング
トレーナーヒロ・マツダ
デビュー1977年8月
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ハルク・ホーガン(Hulk Hogan、本名:Terry Eugene Bollea、1953年8月11日 - )は、アメリカのプロレスラー。ジョージア州オーガスタ生まれ、フロリダ州タンパ出身。
長女は歌手のブルック・ホーガン。甥は元プロレスラーのホーレス・ホーガン(マイク・ボレア)。 自著によると少年時代のホーガンは圧倒的な体格を生かし、野球のリトルリーグでは強打者として活躍していたが、太りすぎており足が遅く、他のスポーツは苦手であったという[3]。高校時代にボディビルディングで体を鍛える一方、南フロリダ大学時代から「ラッカス(Ruckus)」というロックバンドのベーシストで活動した。 もともとプロレスファンだったホーガンはスーパースター・ビリー・グラハムに憧れ、自身の巨体とロックバンド時代に培った観客とのやり取りの才覚を活かすべく、プロレスラーになることを決意。ビリー・グラハムには弟子入りを断られるも、NWAフロリダ地区(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)のプロモーターだったエディ・グラハムの息子マイク・グラハムを介してヒロ・マツダのトレーニングを受ける[4]。レスラーになるのをあきらめさせるためマツダから厳しいシゴキを受けて足を折られたこともあったが[5][注 1]、1977年8月に覆面レスラーのスーパー・デストロイヤー(The Super Destroyer)として、ブライアン・ブレアーを相手にデビューを果たした[6]。 以後、テリー・ボールダー(Terry Boulder)、スターリング・ゴールデン(Sterling Golden)などのリングネームを用い、ビリー・グラハムの影響下にある筋肉派の新鋭選手として、アラバマのサウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング、テネシーのコンチネンタル・レスリング・アソシエーション、ジョージアのジョージア・チャンピオンシップ・レスリングなど、南部の各プロモーションをベビーフェイスのポジションで転戦[2]。アラバマでは1979年6月にオックス・ベーカーから南部版のNWAサウスイースタン・ヘビー級王座を奪取[7]、12月にはディック・スレーターを破り同王座の北部版も獲得している[8]。5月から7月にかけてはモービルおよびドーサンにて、当時ハーリー・レイスが保持していたNWA世界ヘビー級王座に度々挑戦した[9]。テネシーでは同年5月21日、メンフィスのミッドサウス・コロシアムで同地区の英雄的存在だったジェリー・ローラーとタッグを組み[10]、ジョージアでは10月19日にアトランタのオムニ・コロシアムでスタン・ハンセンと対戦した[11]。 同時期、テレビドラマ『超人ハルク』主演のルー・フェリグノと同じカメラに収まる機会があり、トップ・ボディビルダーのフェリグノより巨大な肉体が評判となる[12]。これを機に、超人ハルクにあやかりザ・ハルク(The Hulk)をニックネームに用いるようになった[12]。一時はプロレス界を離れ港湾労働者に転じていたこともあったが[13]、テリー・ファンクやジャック・ブリスコ、ジェリー・ブリスコらの勧めで復帰を果たし、WWF入りのきっかけをつかむ[14]。 1979年12月、WWF(現:WWE)に初登場。ビンス・マクマホン・シニアの提案でハルク・ホーガン(Hulk Hogan)とリングネームを改め[15]、フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおけるデビュー戦でテッド・デビアスから勝利を収める[16]。 以後、アンドレ・ザ・ジャイアントの巨体に対抗できる超大型のヒールとしてトップ戦線で活躍。ゴリラ・モンスーン、ティト・サンタナ、ドミニク・デヌーチ、レネ・グレイ、ジョニー・ロッズ、ホセ・エストラーダ、イワン・プトスキー、パット・パターソンらを相手にデビュー戦から20数連勝という戦績を残したことから「マディソン・スクエア・ガーデンの奇跡」と評され、その名を全米に知らしめた。
来歴
WWF時代初期右はマネージャーの "クラッシー" フレッド・ブラッシー(1980年)