ハリー・R・トルーマン
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ハリー・ランダル・トルーマン、ワシントン州スピリット・レイクで

ハリー・ランダル・トルーマン(Harry Randall Truman, 1896年10月30日 - 1980年5月18日)は、アメリカワシントン州セント・ヘレンズ山近郊のスピリット・レイク(英語版)湖畔に居住していた旅館『スピリットレイク・ロッジ』のオーナーである。

死亡の数か月前よりセント・ヘレンズ山の異変を取材に来たアメリカのニュース番組を賑わす存在になり始め、1980年に同山が噴火した際には避難を頑なに拒否した末、火砕流に巻き込まれて行方不明となった。目次

1 半生

2 つかの間の栄光

3 最期

4 遺産

5 脚注

6 関連書籍

半生

トルーマンは1896年ウエストバージニア州クレイ郡アイビーデール(英語版)にて、ニューベリーとロザベル夫妻の長男として誕生する[1]。トルーマン一家はワシントン州チェホールズ(英語版)に在住。父ニューベリーは1923年に伐採作業における事故により49歳で死亡し、母ロザベルは1957年に84歳で死去した。トルーマンの近親は9歳年下の妹のジェラルディン(1905-1987年)ただ一人であった[1]

1917年8月4日、トルーマンはアメリカ陸軍航空隊第100飛行戦隊 (アメリカ軍)(英語版)に入隊し、第一次世界大戦に従軍した。1918年1月24日、トルーマンはニュージャージー州ホーボーケンよりイギリス船籍の客船トゥスカニア(英語版)号に乗船して欧州へ派兵された。米英間の護送船団の任務に兵員輸送船として従事していたトゥスカニア号には乗員384名と乗客であるアメリカ陸軍兵2,013名が乗船していたが、同年2月5日、アイルランド沖を航行中に独潜水艦UB-77(英語版)の雷撃を受けて撃沈され、210名が戦死殉職している。トゥスカニア号撃沈から生還したトルーマンは、1919年6月12日にアメリカ軍除隊ワシントン州ルイス郡リッフェに移住し、1926年まで在住した。1926年にスピリット湖にあるセント・ヘレンズ山のロッジの管理人の職を得たトルーマンは、1928年初頭にロッジの権利の半分を購入し、同年後半には残り半分も取得してロッジの正式な経営者となり、その後52年間に渡る余生を同地で送る事となった[2]。トルーマンは1938年以降、その死去までトゥスカニア号遺族会の会員でもあった[1]

トルーマンがスピリット湖畔に移住する事となった切っ掛けは、欧州から帰国した翌年にアメリカが禁酒法の時代に突入した事であった。トルーマンはリッフェにてガソリンスタンドを経営する傍ら、裏ではラム酒の大規模な密造にも関与しており、マフィアは多大な利益を手にしていた彼に対して刺客を差し向ける事を仄めかし始めた。トルーマンは1926年、45口径拳銃を片手に家族と共に僻地であるスピリット湖畔のロッジに避難し、管理人として滞在する事となったのである。トルーマンのロッジは200,000平方メートル以上の敷地面積に100部屋以上の個室があり、湖畔ではボートレンタルも行っていた。1937年にはワーナー・ブラザースのジャック・L・ワーナー(英語版)により、トルーマンのロッジをロケ地として映画『大森林(英語版)』が撮影されている[3]

トルーマンは最初の配偶者であるヘレン・アイリーン・ヒューズと、1935年に再婚したマジョリー・ベネットとは離婚しており、1947年に結婚したエドナ・O・ヘンリックソンとは1978年に死別するまで人生を共にした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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