デトロイト・タイガースなどでプレーした一塁手については「ハリー・デービス (1908年生の内野手)
」をご覧ください。ハリー・デービス
Harry Davis1911年頃
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ペンシルベニア州フィラデルフィア
生年月日1873年7月19日
没年月日 (1947-08-11) 1947年8月11日(68歳没)
身長
体重5' 10" =約177.8 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1895年
初出場1895年9月21日
最終出場1917年5月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
ニューヨーク・ジャイアンツ (1895 - 1896)
ピッツバーグ・パイレーツ (1896 - 1898)
ルイビル・カーネルズ (1898)
ワシントン・セネタース (1898 - 1899)
フィラデルフィア・アスレチックス (1901 - 1911)
クリーブランド・ナップス (1912)
フィラデルフィア・アスレチックス (1913 - 1917)
監督歴
クリーブランド・ナップス (1912)
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ハリー・デービス(Harry H. Davis , 1873年7月18日[1] - 1947年8月11日)は、1900?1910年代に活躍した ・メジャーリーグの野球選手(内野手)。アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。右投げ右打ち。ニックネームは"Jasper"(ジャスパー)。
アメリカンリーグ創設期のフィラデルフィア・アスレチックス(のちのオークランド・アスレチックス)の初代キャプテンで、ボールの飛ばない時代ながら『4年連続のリーグ本塁打王』となった。[2] 1895年にニューヨーク・ジャイアンツに入団したが、目立った活躍はなく翌1896年にジェイク・ベックリーとの交換トレードでピッツバーグ・パイレーツに移籍。パイレーツでは1897年にリーグ最多となる28本もの三塁打を量産し.305の打率を残したが、翌1897年にはルイビル・カーネルズ、ワシントン・セネタースと球団を転々とした。1898年オフには一度フィラデルフィア・フィリーズとも契約を交わしたことがある(出場せず)。 1901年にアメリカンリーグが創設されたのに伴い、故郷のフィラデルフィア・アスレチックスに入団。監督のコニー・マックは、地元出身だったデービスをチームのキャプテンに任命し、マックが不在の時にはデービスがチームの指揮をとることもあったという。1902年にはリーグ最多の43本の二塁打、92打点などの活躍でアスレチックスをリーグ優勝に導いている。なお同年28盗塁を記録しているが、資料(リンク参照)によれば、同年8月13日のタイガースとの試合では逆走盗塁(二塁から一塁への盗塁)を記録している[3]。 長打力があり足も速かったデービスは、1904年にリーグ最多の10本の本塁打を記録したのをはじめ、リーグ優勝した1905年には得点・二塁打数・本塁打数・打点の4部門でリーグトップの成績を残した。本塁打数は1907年まで4年連続でリーグ最多となり、またリーグ最多二塁打数も通算で3度達成している。また打点は1905年、1906年の2年続けてリーグトップの成績だった。 4度目の本塁打王となった1907年を境に成績は低下したが、1910年のワールドシリーズでは3本の二塁打を放ち、また1911年には5打点を挙げるなどの活躍を見せた。同年に一度アスレチックスを離れ、1912年には1年間クリーブランド・ナップス(のちのクリーブランド・ガーディアンズ)の監督を務めた。1913年に再びアスレチックスに戻ったが、1917年に選手を引退するまでは年に数試合出場する程度で、コーチとしての役割の方が大きかったようである。選手引退後もアスレチックスには1927年まで在籍していたが、デービスはアスレチックスに在籍のままフィラデルフィアの市議会議員も掛け持ちしていたそうである。1947年8月11日にフィラデルフィアで死去。満68歳没。
経歴
詳細情報
年度別打撃成績
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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