ハリエット・ハーマン
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イギリス政治家ハリエット・ハーマンHarriet Harman

生年月日 (1950-07-30) 1950年7月30日(73歳)
出生地 イギリスロンドン
出身校ヨーク大学
所属政党労働党
公式サイト ⇒Harriet Harman- personal website
  イギリス 庶民院議員
選挙区キャンバーウェル・ペッカム選挙区
ペッカム選挙区(1982-1997)
在任期間1982年10月28日 - 現職
王璽尚書
庶民院院内総務
女性・平等担当大臣
内閣ゴードン・ブラウン内閣
在任期間 2007年6月28日 - 2010年5月11日
法務次官
内閣第2次トニー・ブレア内閣
在任期間2001年6月11日 - 2005年5月10日
社会保障大臣
女性担当大臣
内閣第1次トニー・ブレア内閣
在任期間1997年5月3日 - 1998年7月27日
その他の職歴
労働党副党首
2007年6月24日 - 2015年9月2日
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ハリエット・ルース・ハーマン(Harriet Ruth Harman 1950年7月30日 - )は、イギリス労働党の政治家。2007年から2015年まで労働党の副党首を務め、その間に党首臨時代理を2回務めたほか、庶民院院内総務王璽尚書、女性・平等担当大臣を歴任した[1]ラディカル・フェミニストとしても知られている[2][3]
来歴
庶民院議員に

1950年ロンドンに生まれる。セントポールズ・ガールズ・スクールを経てヨーク大学政治学を専攻。1982年10月28日に行われた補欠選挙で、ペッカム選挙区から出馬し、3931票の得票差をつけて初当選を果たした。1984年には労働党の社会保障スポークスウーマンとしてフロントベンチに座り、1987年には保健担当スポークスウーマンを務めた。1992年の総選挙後は、影の財務省主席担当官として影の内閣の一員となった。その後、影の雇用担当大臣(1994年 - 1995年)、影の保健大臣(1995年 - 1996年) 、影の社会保障大臣 (1996年 - 1997年)を務める[4]
閣僚入り

1997年の総選挙で労働党が勝利すると、ハーマンは社会保障担当大臣として入閣を果たした。彼女はここで福祉制度の再編を担ったが、1998年の内閣改造で更迭されてしまう。デイリー・メール紙によれば、この更迭はフランク・リード政務次官との不仲が原因であるという[5]2001年の総選挙後は、女性としては初の法務次官に任命された。

政府の一員として彼女はトニー・ブレア政権を支え[6]、ほとんどの投票行動で党の方針に従ったが、イラク戦争には一貫して反対し続けた[7][8]
副党首就任詳細は「2007年イギリス労働党副党首選挙」を参照

副党首ジョン・プレスコットが党首トニー・ブレアと共に辞任することが明らかになると、ハーマンは副党首選挙に出馬することを表明した[9]。ハーマンには有力な労組の支援が期待できなかったため、副党首選挙に必要な軍資金を調達するために、総額£50,000ものローンを組んだ[10][11]。しかし、寄付金やローンの報告が遅れたため、選挙管理委員会から選挙規約違反の疑いを問われる場面もあった[12]。選挙は6人が立候補する乱戦となったが、2007年6月24日、ハーマンは選挙を制し、労働党の新副党首に就任した[13]

選挙は5ラウンドに渡って行われたが、ハーマンが1位となったのは決選投票の最終5ラウンド目のみで、2 - 4ラウンド目はアラン・ジョンソンが制していた。ハーマンの勝因は一般党員票を多く獲得したことや、4ラウンド目に敗退したジョン・クルダスの支持者がハーマンに流れたことであり、これが得票率50.43%という僅差での勝利につながった。
ブラウン政権時代

ハーマンは熱心なブラウン派議員として知られ、1980年代以降ゴードン・ブラウンとは非常に親しい関係にある。ゴードン・ブラウン内閣では王璽尚書、庶民院院内総務(労働党副党首、幹事長も兼任)、女性・平等担当大臣に任命されており、5つの役職を兼任することとなった。

2007年の労働党党大会では、保守党を痛烈に非難し、次の選挙では競争相手にすらならないだろうと喝破した[14]2008年4月2日には、ルーマニアでのNATOの会議に参加しているブラウン首相の代理としてPMQ's(Prime Minister's Questions 首相答弁)の場に立ち、労働党の女性としては初めてPMQ'sに応じた議員となった。7月9日にも洞爺湖サミットに参加しているブラウン首相の代理として、PQM'sに応じている。

2008年4月、彼女のブログハッキングされ、ハーマンが保守党に入党していたという記述が書き加えられた。しかし、彼女はスカイ・ニュースのインタビューでユーザーネームとパスワードに、自分の名である「ハリエット」と「ハーマン」を使用していたことを認め、セキュリティの甘さを晒す結果になった[15][16]

2010年5月6日総選挙において労働党は敗北し野党に転落。ブラウンの退陣に伴い5月11日に労働党党首代行、及び影の首相代行に就任した。その後2010年の党首選エド・ミリバンドが党首に選出されたが、その後も副党首を務めた。

2015年5月8日総選挙にで労働党が再度敗北してエド・ミリバンドが引責辞任したため、再び党首代行となった。党首代行となった際に、新党首が選出された後に副党首を辞任すると表明している[17]
政治姿勢

彼女の初当選は、労働党が全体的に左傾していた1980年代初頭であり、ハーマン自身もかつては「オールドレイバー」的な政治家とみられていた。しかし、徐々に党近代化を進める「モダナイザー」と呼ばれるグループに寄り、最近では「やや左寄りのモダナイザー」という評価が定着している[18]

ラディカル・フェミニストとしても知られ、彼女の強硬なラディカル・フェミニズムを嫌う議員も多く、彼らからはハリエット・ハーパーソン(ラディカル・フェミニストが嫌う性別を特定する表記を避け、彼女の姓 Harman を Harperson に変えている)と揶揄されることがある[19]


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