ザ・ハリウッド・ブロンズ(The Hollywood Blonds)は、1970年代にアメリカ合衆国で活動した、プロレスラーのジェリー・ブラウンとバディ・ロバーツによるタッグチームである。綴り字は女性形を用い "The Hollywood Blondes とされる場合もある[† 1]。
ゴールデン・グラハムズ、バリアント・ブラザーズ、ブロンド・ボンバーズ(リップ・ホーク&スウェード・ハンセン、レイ・スティーブンス&パット・パターソン)などと並ぶヒールの金髪タッグチームとして一世を風靡し、日本でも実績を残した[1]。
昭和期の日本では「ハリウッド・ブロンドス」と呼称されていたが、本項では原音に近い表記を使用する。なお、1993年にWCWで活動したスティーブ・オースチンとブライアン・ピルマンのリメイク版ハリウッド・ブロンズ(後述)と区別するために、便宜上「オリジナル・ハリウッド・ブロンズ」とも呼ばれる。
目次
1 概要
2 リメイク
3 獲得タイトル
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 外部リンク
レロイ・マクガークの運営していたオクラホマのNWAトライステート地区にて、当初は "ダンディ" ジャック・ドノバンとジェリー・ブラウンのチームとして結成されるが、ほどなくしてドノバンが足首を負傷し戦線を離脱[2]。後任としてバディ・ロバーツがブラウンの新パートナーに起用され、サー・オリバー・フンパーディンクをマネージャーに[2]、1970年より本格的な活動を開始する[3]。 以降、ベテランのブラウンのリードのもと若いロバーツが動き回るという戦術で各地区のタッグ戦線を席巻。トライステート地区では1970年5月8日、トーナメントの決勝でビル・ワット&ダニー・ホッジを破りUSタッグ王座を獲得[4]。1971年6月1日にはモントリオールのグランプリ・レスリングにて、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バションからGPWタッグ王座を奪取[5]。以降も1973年にかけて、ジョー・ルダック&ポール・ルダック、キラー・コワルスキー&ジル・ポワソン、エドワード・カーペンティア&ブルーノ・サンマルチノなどのチームを相手に、同王座を争った[5]。 モントリオールで活動中の1971年10月、「ブロンド・ボンバーズ」[† 2]のチーム名で国際プロレスに初来日。残留参戦した11月末開幕のシリーズにおいて、11月30日に越谷、12月12日に飯能にて、ラッシャー木村&サンダー杉山のIWA世界タッグ王座に連続挑戦[6]。1974年1月の再来日でも、新王者チームの木村&グレート草津が保持していた同王座に挑戦した[7]。 1974年3月19日にはフロリダにて、ケビン・サリバン&ヘイスタック・カルホーンからフロリダ・タッグ王座を奪取[8]。ロサンゼルスでは同年12月から翌1975年7月にかけて、ルイ・ティレ&ビクター・リベラ、ポークチョップ・キャッシュ&S・D・ジョーンズ、ジョン・トロス&ルイ・ティレ、ブラック・ゴードマン&エル・ゴリアスなどのチームを破り、アメリカス・タッグ王座を通算4回獲得した[9]。 1975年8月1日にはロサンゼルスに遠征してきたアントニオ猪木&坂口征二の北米タッグ王座に挑戦。この試合はノーコンテストの判定が下され、タイトルは空位となる[1][10]。同月、決着をつけるべく新日本プロレスに初参加[11]。9月22日の愛知県体育館での王座決定戦で坂口&ストロング小林を破ってチャンピオン・チームとなったが、10日後の10月2日、大阪府立体育館にて猪木&坂口に奪回された[10]。 1976年は古巣のトライステート地区に戻り、3月18日にグレッグ・バレンタイン&ゴージャス・ジョージ・ジュニアを下してUSタッグ王座への通算5回目の戴冠を果たした[4]。同年下期は新日本プロレスへの再来日を経てフロリダ地区に再び参戦し、9月7日にボブ・バックランド&スティーブ・カーンを破りフロリダ・タッグ王座にも返り咲いている[8]。フロリダではジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコの兄弟チームとも抗争を展開した。 翌1977年はNWAミッドアトランティック地区に登場、1月17日にディノ・ブラボー&ティム・ウッズからミッドアトランティック・タッグ王座を奪取した[12]。
概要