ハラール
位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ハラールハラール (エチオピア)エチオピアの地図を表示ハラールハラール (アフリカ)アフリカの地図を表示
行政
国 エチオピア
州ハラリ州
市ハラール
地理
面積
市域? km2
標高1,885 m
人口
人口(2012年現在)
市域151,977人
その他
等時帯EAT (UTC+3)
ハラール(アムハラ語:???、英語:Harar)は、エチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都。日本語においては「ハラル」「ハラレ」「ハーラル」とも表記されるが、「ハラール」の表記が現地の発音に近い[1]。
首都アディスアベバからは約523km離れており、エチオピア高原の東の丘の上にある(海抜1900m)[2]。ジュゴルと呼ばれる城壁に囲まれたハラールの町には87のモスクが存在し、16世紀から19世紀前半にかけてはイスラームにおける「第4の聖地」とも考えられていた[2]。この歴史的街並みは、「歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル」の名で、2006年にユネスコの世界遺産に登録された(ID1189)。また、何世紀もの間ハラールは、エチオピア各地、アフリカの角、アラビア半島などを結ぶ交易の中心地であり、港を通じてそれ以外の世界に開かれていた。さらにハラールの名は独特のコーヒーの名前(ハラール・コーヒー
)にもなっている。ハラールの住民はキリスト教徒やムスリムだが、その民族構成は多様で、アムハラ人、オロモ人、ソマリ人、グラゲ人、ティグレイ人
などからなる。しかし、市内で優勢なのはこの街の先住民であるハラリ人である。彼らは自らをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市の民」)と称するセム系民族で、かつてはアクスム王国の軍事的前哨拠点を出自とする人々と考えられていた。ハラリ人は民族集団を固持するよりも他の集団と混じる傾向があり、また異邦人にも好意的であったことから、今日の彼らの区分は厳格な民族集団の区分というよりも、文化的・社会的な区分に過ぎない。
彼らの言語であるハラリ語は、クシュ語が支配的な地域にあって、セム系言語の点在する地域を構成するものである。筆写には、本来アラビア文字が使われたが、近年ゲエズ文字も使われるようになっている。 住民たちからゲイ(Gey,「都市」の意)と呼ばれていたこの街は、史料によって異なるが7世紀から11世紀の間に建造されたようであり、アフリカの角におけるイスラームの宗教的・文化的中心地として立ち現れた。こうした背景から、ハラールは他のエチオピアの都市と異なるアラブ風の街並みを持っている[4]。14世紀のエチオピア皇帝アムダ・セヨン1世
歴史
かつてはエチオピア帝国に臣従していたアダル・スルタン国の一部であり、アブー・バクル・イブン・ムハンマド(英語版)治下の1520年にアダルの首都となった[5]。その後16世紀中に、「左利きのグラン」 (Gragn the Left-handed) の異名を持つアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガーズィー(英語版)(アフマド・グランニュ)がハラールを拠点に侵略戦争を仕掛け領土を拡大し、エチオピア帝国の存立をも脅かした。その後継である首長ヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、町の周りを5つの門を持つ4mの城壁で囲んだ[5]。「ジュゴル」と呼ばれたこの壁は現在も残り、住民にとってはハラールのシンボルとなっている。
ハラールは16世紀に最盛期を迎えた。地域の文化が繁栄し、多くの詩人たちが逗留し謳い上げた。同時にコーヒー、織物業、籠細工、製本術などでも有名になった[5]。
ハラールは独立した都市国家としての形態を維持し、支配者たちは独自の貨幣も鋳造した[5]。最古のものはイスラム暦615年(西暦1218年 - 1219年)とも読める日付が刻印されているものだが、確実に最古といえるものは西暦1789年のことになる。その後、19世紀を通じて、さらに貨幣が発行された[6]。ハラール滞在中のランボー
ハラールの町は1875年までは何とか独立を保っていたが、その年にエジプトに征服された。東アフリカにおける拠点の確立を図るエジプトはハラールに3,400人の兵士を派遣し、エジプトからハラールにサトウキビ、カボチャ、アーモンド、レモン、ブドウなどの作物がもたらされた[2]。1875年から1885年にかけてのエジプト占領期に、ハラールは顕著な発展を遂げる[2]。なお、この時期、詩人アルチュール・ランボーがハラールに滞在しており、彼が住んでいた家は今では記念館となっている。エジプト軍が撤退した1885年には、東洋学者・探検家のリチャード・フランシス・バートンがハラールを訪れた。
エジプト軍はハラール周辺で遊牧生活を営んでいたオロモ人の攻撃に悩まされ、1880年代にエジプト国内の政情が不安定になると町から撤退した[2]。1885年にハラールは束の間の独立を取り戻したが、わずか2年後の1887年1月6日、シェワを拠点とするメネリク2世治下のエチオピア帝国に併合された。1897年、後のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の父メコネン・ワルダ・ミハエル(英語版)がハラールの知事に就任する。エチオピアへの併合後も都市国家時代の行政システムは機能しており、メコネンらアムハラ人の知事たちはそれを利用して統治を行っていた[5]。メコネンはオロモ人と対立しながらも町の開発を進め、公共施設、道路の建設に力を注いだ[2]。1902年に建設されたラス・メコネン病院は、フランス人設計家の手によるものである。メコネンの知事時代から1920年代半ばまでの間、アフリカ・アラビア半島の交易路が交差するハラールは商業の中心地として繁栄した[2]。1906年にハラールを訪れたイタリア人エンリコ・アルベルトは土着のイスラム教徒と新住民であるキリスト教徒が共存する街の様子を記録している[2]。
その後、ハラールの商業的重要性は後退する。当初、都市間を直接結ぶことが計画されていたアディスアベバとジブチ間の鉄道が工事費縮減のため、ハラールとアワッシュ川の間で山の北側を迂回することになったためである。この結果、「新しいハラール」として新都市ディレ・ダワ (Dire Dawa) が1902年に建造された。